『魏志』の倭人条に「卑弥呼以死大作冢径百余歩」というのがあります。卑弥呼の墓の形と大きさを示しているものですが、ここには「作大冢」ではなく「大作冢」と書かれおり、この冢(ちょう)は「大きな墓」を意味しているわけではないことがわかります。
それでは、「大作冢」の「大」はどのように解釈すればよいのでしょうか。日本語にすると「大いに冢を作る」であり、「大々的に」つまり「国を挙げて」という意味合いを持つ「大」なのではないかと考えられるのです。「大」は「冢」の規模ではなく「冢」をつくる体制を示したものと言えます。
「径百余歩」が「大きな墓」ではないことは、『魏志』の倭人条の距離表示と実際の距離との比較によってわかります。これは、かつて論争があった「短理」という考え方になります。この「短理」は「短理」という基準があったのではなく、『魏志』の倭人条では朝鮮半島と日本列島内(九州)では、1里は魏時代の1里の長さの1/5程度だったという事実によります。これにはいろいろ意見もあるところだとは思いますが、事実は事実なのです。
安本美典氏は、『「邪馬台国」ハンドブック』で、1里は平均で93m弱、古田武彦氏は『「邪馬台国」はなかった』で、韓国の広さを基準とし1里=75~90mとしています。宝賀寿男氏は「古樹紀之房間(こさぎのへや)」の「卑弥呼の冢」という論考で、魏朝の度量衡制による1里=434m強から、魏里の1/5として、1里=87m弱としています。私は「『隋書俀国伝』の証明」の中で、1里の長さを最短から最長までそのまま捉え、その範囲として、1里=33~138mとしています。
三氏の説によれば、卑弥呼の墓の直径100歩(1里=300歩)は、安本説では31m程度、古田説では25~30m、宝賀説では29m程度となります。100「余歩」なのでこれらの数値より少し大きいということになりますが、ほぼ直径30m位の大きさになると考えてよいと思います。ちなみに私の説では、11~46mになります。
この直径「30m位の大きさの墓」には短理により導かれたものの他にも根拠があります。それは魏の曹操による「薄葬令」です。曹操の墓は自らつくった「薄葬令」に基づいて築かれた、封土を持たない、墓域も740㎡という規模だったとされます。方形だとすると一辺は30mに満たない大きさということになります。卑弥呼はそのような国に遣使し朝貢していました。魏の「薄葬令」のことを知らないはずはありません。曹操の墓は封土のないまさに「冢」であり、陳寿が「冢」と書いているように、卑弥呼の墓も「冢」であったことは疑いがありません。曹操が亡くなったのは222年であり、卑弥呼が亡くなったのは248年頃とみられており、魏に朝貢する東夷の国の王の墓が同時代の中国魏の皇帝の墓よりも大きいというのは到底考えられない話なのです。
宝賀氏は3世紀の中国の皇帝や、朝鮮半島の重要人物の墓について詳しく論じ、卑弥呼の墓と比較していますが、こういった世界観や、俯瞰する目を持たないと正しい日本の古代は見えてきません。
箸墓古墳を卑弥呼の墓とみる研究者は後を絶ちませんが、3世紀の中国、朝鮮半島の墓制、規模を知れば、箸墓古墳を卑弥呼の墓とみることの理不尽さがはっきりとわかるはずです。
考古学者の寺沢薫氏は、発掘の初期から箸墓古墳を卑弥呼の墓とみることに慎重な姿勢を示していましたが、最近はすっかり「箸墓は卑弥呼の墓」派になってしまったように見受けられます。前述したような状況にあるにも関わらず、非常に残念です。
一方、同じように奈良で発掘調査をしていた考古学者の関川尚功氏は、消極的ではあるけれど、邪馬台国は畿内にはなかった、と結論付けています(考古学から見た「邪馬台国大和説」畿内ではありえぬ邪馬台国)。
拙著「日本書紀10の秘密」でも、箸墓は卑弥呼の墓ではない、ということを書きましたが、以上のような『魏志』倭人条の里の記述と魏の薄葬令など、特に3世紀中葉の世界観からすれば、100mを超す円墳や前方後円墳などは卑弥呼の墓ではなく、また、このような巨大な古墳がある地域は卑弥呼の国ではあり得ない、というのが正しい歴史の見方なのではないか、と私には思えるのですが。
それでは、「大作冢」の「大」はどのように解釈すればよいのでしょうか。日本語にすると「大いに冢を作る」であり、「大々的に」つまり「国を挙げて」という意味合いを持つ「大」なのではないかと考えられるのです。「大」は「冢」の規模ではなく「冢」をつくる体制を示したものと言えます。
「径百余歩」が「大きな墓」ではないことは、『魏志』の倭人条の距離表示と実際の距離との比較によってわかります。これは、かつて論争があった「短理」という考え方になります。この「短理」は「短理」という基準があったのではなく、『魏志』の倭人条では朝鮮半島と日本列島内(九州)では、1里は魏時代の1里の長さの1/5程度だったという事実によります。これにはいろいろ意見もあるところだとは思いますが、事実は事実なのです。
安本美典氏は、『「邪馬台国」ハンドブック』で、1里は平均で93m弱、古田武彦氏は『「邪馬台国」はなかった』で、韓国の広さを基準とし1里=75~90mとしています。宝賀寿男氏は「古樹紀之房間(こさぎのへや)」の「卑弥呼の冢」という論考で、魏朝の度量衡制による1里=434m強から、魏里の1/5として、1里=87m弱としています。私は「『隋書俀国伝』の証明」の中で、1里の長さを最短から最長までそのまま捉え、その範囲として、1里=33~138mとしています。
三氏の説によれば、卑弥呼の墓の直径100歩(1里=300歩)は、安本説では31m程度、古田説では25~30m、宝賀説では29m程度となります。100「余歩」なのでこれらの数値より少し大きいということになりますが、ほぼ直径30m位の大きさになると考えてよいと思います。ちなみに私の説では、11~46mになります。
この直径「30m位の大きさの墓」には短理により導かれたものの他にも根拠があります。それは魏の曹操による「薄葬令」です。曹操の墓は自らつくった「薄葬令」に基づいて築かれた、封土を持たない、墓域も740㎡という規模だったとされます。方形だとすると一辺は30mに満たない大きさということになります。卑弥呼はそのような国に遣使し朝貢していました。魏の「薄葬令」のことを知らないはずはありません。曹操の墓は封土のないまさに「冢」であり、陳寿が「冢」と書いているように、卑弥呼の墓も「冢」であったことは疑いがありません。曹操が亡くなったのは222年であり、卑弥呼が亡くなったのは248年頃とみられており、魏に朝貢する東夷の国の王の墓が同時代の中国魏の皇帝の墓よりも大きいというのは到底考えられない話なのです。
宝賀氏は3世紀の中国の皇帝や、朝鮮半島の重要人物の墓について詳しく論じ、卑弥呼の墓と比較していますが、こういった世界観や、俯瞰する目を持たないと正しい日本の古代は見えてきません。
箸墓古墳を卑弥呼の墓とみる研究者は後を絶ちませんが、3世紀の中国、朝鮮半島の墓制、規模を知れば、箸墓古墳を卑弥呼の墓とみることの理不尽さがはっきりとわかるはずです。
考古学者の寺沢薫氏は、発掘の初期から箸墓古墳を卑弥呼の墓とみることに慎重な姿勢を示していましたが、最近はすっかり「箸墓は卑弥呼の墓」派になってしまったように見受けられます。前述したような状況にあるにも関わらず、非常に残念です。
一方、同じように奈良で発掘調査をしていた考古学者の関川尚功氏は、消極的ではあるけれど、邪馬台国は畿内にはなかった、と結論付けています(考古学から見た「邪馬台国大和説」畿内ではありえぬ邪馬台国)。
拙著「日本書紀10の秘密」でも、箸墓は卑弥呼の墓ではない、ということを書きましたが、以上のような『魏志』倭人条の里の記述と魏の薄葬令など、特に3世紀中葉の世界観からすれば、100mを超す円墳や前方後円墳などは卑弥呼の墓ではなく、また、このような巨大な古墳がある地域は卑弥呼の国ではあり得ない、というのが正しい歴史の見方なのではないか、と私には思えるのですが。
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