YouTube を見ると、日本古代史は諸説入り乱れ、百花繚乱です。それはそれでよいのですが、資料としている中国史書が自分の都合のよい史書に偏っているというのはいただけません。
 私がいつも思うのは、ある史書には合致していてもほかの史書には矛盾している場合、どう対処しているのだろうか、ということです。日本古代史研究の研究対象史書はほとんどが『魏志』倭人条です。しかしこの史書には邪馬台国問題を解決するだけの必要にして十分な情報はありません。そこで研究者はあれこれ知恵を絞って自分が考えている方向に持っていける史料を見つけ出しているようです。私にはそのように見えます。
 その中で、ほとんどの研究者が無視していることがあります。それは「連続する複数の中国正史の記録に整合するものでなければならない」ということです。私にとってこれは絶対命題なのですが、ほとんどの人たちにはそうではないようです。最近、私が特に気になったのは、邪馬台国九州説における、4世紀までには邪馬台国は消滅し畿内大和はやまと王権(中国から日本列島の代表として認められた)の時代になっていた、という見方です。

 畿内説は当然ですが、東遷説、九州説、いずれも4世紀初めには、やまと王権が成立していたという見方が主流のようにみえるのですが、どうしても私には納得がいかないのです。そこで、4世紀初めには中国の通交相手は「畿内やまと」になっていたと仮定した場合、『隋書』俀国条の地理地形や『日本書紀』推古天皇16年(608)の「唐」の解釈はどうなるのかを考えてみることにしました。

『隋書』俀国条の地理地形

 このブログで何度か紹介している俀(倭)国の地理地形「其国境 東西五月行 南北三月行 各至於海」ですが、これは『隋書』だけに書かれているわけではありません。『旧唐書』倭国条には「依山島而居 東西五月行 南北三月行」とあり、『新唐書』日本条には、『旧唐書』で倭国だったところが日本と書き替えられ「日本・・・在海中島而居 東西五月行 南北三月行」とあります。
 日本についても、『旧唐書』日本国条には、「其国界 東西南北各数千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山為限 山外即毛人之国」と、倭国とは別の場所にある国として描かれ、『新唐書』では「其国方数千里南西尽海東北限大山其外即毛人云」と、その日本は日本全体の都になったと書かれています。
 『隋書』『旧唐書』『新唐書』の倭国と日本国の地理地形はまったく異なっており、倭国と日本国は別の場所に存在していたことがわかります。別の場所に存在していたとしても、東遷説のような考え方をすれば「倭国=日本国」は成立可能にはなりますが、隋の時代の倭国とその後に登場する日本国は、地形からみて異なる場所にあったわけですから、東遷時期は4世紀初め以前とはなりません。『隋書』を無視しても『旧唐書』『新唐書』にも同じ地理地形が書かれているのですから、それを主張するためには『旧唐書』『新唐書』も無視する必要があります。しかしこれでは、間違っても歴史研究とは言えなくなるでしょう。

 『隋書』の地理地形の「東西五月行」の「東」から、俀国は九州から畿内を含む範囲だとする見方があります。私はこれに続く「各至於海」はどう解釈するのか知りたいのですが、それは皆さん素通りです。私には、本州、四国の一部分も含み、陸と陸の間に海がある地形のようには読めません。周りを海に囲まれた大きな島を表現したものとしか読めないのです。
 しかし先ほどみたように、4世紀初めの畿内に日本列島の代表として中国と通交していた国がなかったとすると、『隋書』の俀(倭)国は「やまと」ではないことになります。俀国の東西の勢力範囲に畿内大和から九州までの地を含む必要はないのです。必要がないというより、そのように考えることはできないのです。「東西五月行 南北三月行 各至於海」は島を意味するものとしてよいのです。

 このように、4世紀初めにはすでに中国の通交相手が畿内大和(やまと)になっていたとする仮定は、『隋書』『旧唐書』『新唐書』の地理地形記事の存在によって否定されるのです。

推古天皇16年(608)の「唐」

 このことについては、ホームページ「倭国と日本国の関係史」の「古代史ノート」【日本書紀 推古天皇16年(608)記事を検証する】で書いているので、詳細についてはそちらを参照していただければ、と思います。

 推古天皇16年(608)の記事は、『隋書』俀国条大業4年(608)の隋の俀国への遣使を念頭に置いて書かれたものであることは間違いないと思われます。しかしそれは同じ事件を記したものとは限らないと私はみています。「唐」問題があるからです。
 『隋書』は隋の時代を描いた正史です。俀国に遣使してきた国が隋であることは間違えようのない事実です。ところがなぜか『日本書紀』はこの記事を推古天皇16年(608)にあてながら、国名から人名まですべて唐としてしまったのです。隋の使者裴清は「大唐の使人裴清世」となっています。
 「やまと」が本当に隋と通交し、隋から使者が来たのなら、隋皇帝からの書がもたらされ、そこには隋という国名、隋皇帝の名、隋の使者の名、やまとの天皇の名などが記されていたはずであり、そのまま載せても問題はなかったはずです。また、もしそうではなかったとしても、俀国に遣使してきた国が実際に隋なのだから、「隋」との出来事として「自分たちはその俀(倭)国である」とアピールする絶好の機会だったはずです。しかしなぜか『日本書紀』はそうはしませんでした。

 推古天皇16年の記事を見ると、『隋書』の記事を思わせるのは「裴清世」(『隋書』は「裴清」)だけであり、あとは確かにすべて「唐」であってもそんなにおかしなところはありません。さきほどみてきたことから言えば、「やまと」は倭国ではありません。神功皇后紀の「倭女王」記事と同様、『日本書紀』編纂者は、よく言えば、そこまではっきりと偽史は書けず、同じ事件であるかのようにみてもらうことをねらった、ということなのかもしれません。
 推古天皇16年(608)には、『隋書』が示す通り、隋から使者が来た俀(倭)国は日本列島の代表として九州に存在していました。『日本書紀』に描かれた「隋」ではない「唐」は、「裴清世」を除き、実際に、唐の時代の「唐」だったのだと私は思っています。

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 4世紀初めには邪馬台国は消滅し畿内大和はやまと王権(中国から日本列島の代表として認められた)の時代になっていたと仮定すると、それが成立するためには、『隋書』『旧唐書』『新唐書』の、特に地理地形記事を無視ないし否定しなければならないことがわかりました。また、この三書を正しいとして採用すると、この仮説は崩壊します。どちらを取るか、と言われれば、当然後者です。中国正史の記述をすべて信じなさい、とは言いませんが、そこを通してみてどうなるのか、ということを考えることは非常に重要です。それをしないのは歴史の研究とは言わない、と私は思います。
 歴史は連続する時間の流れの中にあります。3世紀の史書だけで7世紀を語ることはできません。当然です。すべての研究者が歴史の研究者であることを切に願うばかりです。

※『魏志』倭人伝の「〇〇伝」は正確には「烏丸鮮卑東夷伝 倭人」であり、「倭人」は「伝」ではないので「倭人条」と書くようにしました。他の正史も同様にしました。