※「邪馬台」は、『魏志』倭人条において「邪馬壹」が正しいのですが、ここでは提唱者の用法に従い「邪馬台」を使用します。

 『魏志』倭人条の女王国は、女王がいた邪馬台国を指しているのか、それとも女王の勢力が及ぶ倭諸国全体、つまり倭国を指しているのか、ということについは、「古代史新説チャンネル」で伊藤さんが動画にアップしていますが、私も自分なりに一度チェックしておく必要があるのではないかと思い、「女王国は九州、邪馬台国は畿内大和」という説も頭において考えてみることにしました。

『魏志』倭人条には次のようにあります。邪馬台国は一か所、女王国は五か所あります。

【邪馬台国】
 A南到邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月

【女王国】
 ①東南陸行五百里到伊都国・・・世有王皆統属女王国
 ②自女王国以北其戸数道里可得略載・・・
 ③自郡至女王国万二千余里
 ④自女王国以北特置一大率検察諸国
 ⑤女王国東渡海千余里復有国皆倭種

 まず邪馬台国をみてみます。

Aについて
 これは非常に重要な記事です。そこには、邪馬壹国は「女王が都として住んでいるところ」だと書かれているからです。ただ、女王が都として住んでいるからといって、その国を「女王国」と呼んだのかどうか、というのはまた別の問題ということもできますので、ここからだけでは何とも言えません。

 次に女王国をみていきます。

①について
 伊都国には世々王がいたが、みな女王国に属していた、という意味になります。もし女王国が女王の勢力が及ぶ倭諸国全体、つまり倭国の意味だとすると、これは卑弥呼が女王に共立されてからのことになり、「世・・・皆」に矛盾するように思えます。したがって伊都国は、倭諸国全体としての女王国にではなく、昔から邪馬台国に属していた、という解釈になるかと思います。
 伊藤さんは倭諸国全体としての女王国と解釈しているようです。

②について
 以北は、戸数・道里が記載されている対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国のことを指しており、女王国は邪馬台国の意味であることがわかります。

※投馬国には里数(道里)が書かれていないので、女王国より北にはなかった、という解釈ができることに気が付きました。ここでは直接関係はありませんが。

③について
 女王国が、女王の勢力が及ぶ全体、倭国の意味だとすると、郡からは狗邪韓国までの7000余里になってしまいます。この女王国は邪馬台国を指していることがわかります。

④について
 これも、女王国が、女王の勢力が及ぶ全体、倭国の意味だとすると、その北は倭国ではなくなってしまいますので、この女王国は邪馬台国のことになります。

⑤について
 この場合、女王国が邪馬台国だとすれば、邪馬台国は東にある海に面していたことになり問題はありませんが、女王国が、女王の勢力が及ぶ倭諸国全体、倭国の意味だとしても、その勢力圏内の国の東が海であれば矛盾は起きません。⑤の記録はどちらの意味にもとれます。

 このように、どちらとも受け取れる記事もありますが、少なくとも三記事は邪馬台国のこととしています。①を含めれば四記事となります。この結果からは次のようなことが言えると思います。

 女王国とは、通常は女王が住む都である邪馬台国のことを指しているが、女王国の勢力が及ぶ倭諸国を含む範囲を意味することもある。

 このことから、Aは【『魏志』倭人条では「邪馬台国」を「女王国」と記すことがしばしばあった】ことを示唆しているものと捉えてもよさそうです。

 このように『魏志』倭人条において、「邪馬台国」は「女王国」と書かれることがしばしばあり、「女王国は九州、邪馬台国は畿内大和」という分離型東遷説(私の命名ですが)は、『隋書』俀国条を見るまでもなく、『魏志』倭人条においてすでに破綻していると思われます。「水行二十日」「水行十日陸行一月」は後付けではなく、初めから『魏志』倭人条に書かれていたと理解する必要があります。
 ただ、『隋書』俀国条を軽視せずきちんと読めば、このような検証は必要ないのですが。