言い間違えていたことがありました。それは、邪馬臺国問題には『魏志』倭人伝だけでいいんだ、と言う研究者ばかりだというようなことを言いましたが、『隋書』を取り上げている人もいたことを忘れていました。古くは古田武彦さん。
 古田氏は、『隋書』の行路の「東」をそのまま「東」として畿内方面に倭国の範囲を考えています。要するに隋の時代には倭国は畿内を含めて倭国だという見方です。しかしこの「東」は検討が必要なのです。対馬から壱岐に行くときの方角が、『魏志』倭人条では「南」と書かれているからです。これは大問題なのですが、古田氏はさらっと、「東」は「南」だという話もありますが、で終わりにしてしまっています。でもこれでは、四面が海に囲まれた島国である、という地形に合いません。なぜこうなるかと言うと、「東西五月行南北三月行」というのが原因のようです。東西に長いので畿内方面に行くしかないということなんですね。でも「東」が実は「南」だということになれば、四面が海に囲まれた島は南北に長いことになります。そこは「有阿蘇山」の国なのですから、この島国はどこを示しているかは一目瞭然です。

 このことを、私はずっと言い続けてきましたが、『隋書』俀国条の「東」についてはそのまま「東」とする研究者ばかりです。『隋書』を取り上げて邪馬臺国問題を考える人が少ない中では非常に貴重な存在なのですが、これでは意味がありません。古田氏のこの見方は現在も生きていて、最近YouTubeで『隋書』を取り上げた人もこの見方でした。期待していたのですが、がっかりでした。
 なんでこのようになってしまうのか、と考えると、その向こうに、『宋書』の五王と『日本書紀』の推古天皇16年(608)に隋の使者裴清世が日本に来た記事が見えてきます。
 多くの研究者が、五王と裴清世の記事は「やまと」の事件として間違いないとみているからです。しかしこれが間違いなのです。推古天皇16年はどういうことなのか、ということはホームページの「古代史ノート」で詳しく書きましたので省略しますが、まったくどうにも「やまと」の天皇に合わない五王を必死に合わそうとしたり、勝手に歴史をつくってしまう努力には、本当に頭が下がります。でもその頭を、まず、倭国・日本国に関係する中国正史を通して、倭国通史をつくることに使ってほしいと私は思ってしまうのですが。そのあとでも、五王や裴清世のことは検討できます。というか、それが研究の正しい道筋だと思うのですが。

 追加。『隋書』俀国条の隋の使者の名は「裴清」ですが、『隋書』を語っている時も「裴清世」と言っている研究者がいます。隋の時代を描いた歴史書の「裴清」がなぜ『日本書紀』で「裴清世」なのか、思い込みは研究者は慎むべきなのでは、と思った次第です。

 ちょっと愚痴になってしまいました。