ブログ名が気に入らず、また変えてしまいました。原因は日本古代史のYouTubeチャンネル。自分で動画を挙げるのは難しいので、これなら、というチャンネルを見つけ自分の考えを伝えてみたらどうかな、と思い立ってコメントしたものの、ここでがっかりしてしまい、私は一人、という思いになったことによります。

 昨年12月の20日過ぎ頃から、思い立った日本古代史YouTubeへのコメントを開始。ここまで、たった2週間なのですが、わかってしまったんです。31年前、私が「市民の古代」に「『隋書俀国伝』の証明」を投稿してから何も変わっていないことを。最近の人たちなら、と期待していたのですが。
 「邪馬臺国」は相変わらず「邪馬台国」と書き、資料とする史書は『魏志』に関連するものばかり。それでは歴史の研究ではない、と言っても、まったく意に介しません。ただ、『魏志』倭人伝だけでは思うようにならないためか、『魏略』『広志』そして『太平御覧』の『魏志』まで引き合いに出す人も現れる始末。『魏略』『広志』は、「女王国は九州、邪馬台国は畿内」という説に利用されたものですが、これも『魏志』倭人伝の範疇からは出るものではありません。
 歴史って何ですか?と問うても、邪馬臺国問題には『魏志』関連以外の歴史書は必要ない、ということのようです。けれど、『魏志』倭人伝では邪馬臺国はどこにでも行ってしまうんですよ。このことはわかっていると思うのですが。

 日本列島の古代の歴史は、中国正史の『漢書』地理志から、日本国が登場し、日本国のみが書かれるようになった(倭国という名は出てきますが)『新唐書』まで、1世紀から7世紀までを通して考えなければわかりません。その中でオリジナルな記事があるものを挙げれば、『後漢書』『魏志』『宋書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』となります。
 特に『隋書』には決定的な記述があります。何度も書いていますが、「其国境東西五月行南北三月行各至於海」「有阿蘇山」です。そして行路記事の「東」によって、東西:南北の比が入れ替わり、「其国境東西三月行南北五月行各至於海」となり、「有阿蘇山」によって俀(倭)国は九州島であることがわかります。また、俀(倭)国は「自魏至于齊梁代與中国相通」と、魏から隋の時代までずっと中国と通交してきたとあります。通交したその中心は当然都である邪靡堆(邪馬臺)であり、邪馬臺は東遷などせず、ずっと九州内にあったことが証明されます。

 『隋書』の地形は『旧唐書』に引き継がれており、倭国とは別に日本国の地形も書かれています。史書間の繋がりも矛盾していません。『魏志』倭人伝のみから邪馬臺問題を考えている人たちはこれらの史実を無視して平気でいられるのだろうか、と私は心配になります。
 また邪馬臺を九州外に求める人は、この史実を否定する根拠・理由を誰にでもわかるような方法で説明する必要があると思います。それがなければ歴史研究とは言えません。ただしこれは文献史学からのアプローチの結果であり、考古学からの理由はNGです。

 でも結局、こう叫ぶのは私一人なんでしょうね。