『後漢書』には、倭奴国が後漢に朝貢し、光武帝から印綬を賜ったとあり、その印綬は志賀島から出土した「漢委奴国王」と彫られた金印だとされています。つまり「倭奴国」は「委奴国」のことになります。また、『漢書』地理志には、七世紀中頃のものとみられる顔師古の注があり、そこには、「倭」と「委」についての、多分史上はじめてとなる「倭と委」論争が載っています。
この顔師古注については、拙著『縄文から「やまと」へ』(電子書籍『倭と山東・倭・日本』)でも書いたのですが、今回新しい発見がありましたので、金印「漢委奴国王」が偽造ではないか、という説も含め、書いてみたいと思います。
『漢書』地理志の顔師古注は次の通りです。三人の見解なので①~③に分けて表記します。②は従来から問題となっているところなので、区切りもつけず、訳もつけないでおきます。
①如淳曰 如墨委面 在帯方東南万里
②臣瓚曰 倭是国名不謂用墨故謂之委也
③師古曰 如淳云 如墨委面 蓋音委字耳 此音非也倭音一戈反 今猶有倭国 魏略云 倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里復有国 皆倭種
訳文
① 如淳はいう。顔に入墨をした人の国が、帯方の東南に万里行ったところにある。
③ 顔師古はいう。如淳は顔に入墨をした人というが、委だけの音は倭の音「iwa」と異なる。以下略
これをもう少し具体的に訳すと
①' 如淳はいう。顔に入墨をしているので倭と呼ばれている国は、帯方の東南に万里行ったところにある。
③' 顔師古はいう。如淳は、顔に入墨をしているのでその国は倭と呼ばれているというが、委だけの音は倭の音「iwa」と異なる(顔に入墨をしている意味の委は国名の倭とは音が異なる)。顔に入墨をしているから倭と呼ばれているのではない。以下略
となります。それではいよいよ②の解釈に入りますが、まずはじめに従来説を紹介します。
従来説 ② 臣瓚はいう。倭は国名である。顔に入墨をしているのをいうのではない。故にこれを委という。
これでは意味がさっぱり通じません。これに対し、西嶋定生氏は次のように解釈しました。
西嶋説 ② 臣瓚はいう。倭は国名である。墨を用いる(顔に入墨をする)ので倭人のことを委というのは実を得たものではない。
この説は確かに筋は通るため、こういうことなのかな、と『縄文から「やまと」へ』を書いたときは思っていたのですが、今もう一度読み直してみると、訳文と原漢文との間に違和感を覚えるのです。この「不謂・・・謂・・・」のように同じ漢字の繰り返しには、中国人は特に気を使っているはずです。同等の「謂」という漢字を使っていながら、後の「謂」を前の「謂」が否定するという構文はあるのだろうかという疑問と、直訳では「・・・と言うことを言わない」という奇妙な文章になってしまうという疑問です。西嶋説②の後半のように意訳っぽく解釈すると不自然に感じませんが、そのまま訳すとおかしなことになります。こういう文章が果たしてあるのだろうか、という単純ですが、重い疑問を感じたのです。
坂田隆氏はこの②ついて、『日本の国号』で次のように訳しています。
坂田説② 臣瓚はいう。倭は国名である。墨を用いるを言わず。古くはこれを委と言う。
坂田氏は「故」を「古くは」と訳したのです。「倭は昔は委と言った」ということになります。思うに坂田氏の頭の中には、金印「漢委奴国王」の「委」があったのではないかと思われます。私はかつて坂田説に賛同しましたが(1998年7月25日発行「『隋書俀国伝』の証明」)、今、顔師古注を改めて読み返してみると、疑問点が浮かんでくるのです。金印「漢委奴国王」が発見されたのは1784年とされており、そこに「倭」が「委」と書かれていたことは、如淳も臣瓚も顔師古も知る由もなく、しかも『漢書』地理志本文においても「倭」であり、それよりも古い史書『山海経』においても「倭」であり、「委」という字はどこにも存在しません。臣瓚が「古くは委と言った」という可能性は低いように思えるのです。
-つづく-
この顔師古注については、拙著『縄文から「やまと」へ』(電子書籍『倭と山東・倭・日本』)でも書いたのですが、今回新しい発見がありましたので、金印「漢委奴国王」が偽造ではないか、という説も含め、書いてみたいと思います。
『漢書』地理志の顔師古注は次の通りです。三人の見解なので①~③に分けて表記します。②は従来から問題となっているところなので、区切りもつけず、訳もつけないでおきます。
①如淳曰 如墨委面 在帯方東南万里
②臣瓚曰 倭是国名不謂用墨故謂之委也
③師古曰 如淳云 如墨委面 蓋音委字耳 此音非也倭音一戈反 今猶有倭国 魏略云 倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里復有国 皆倭種
訳文
① 如淳はいう。顔に入墨をした人の国が、帯方の東南に万里行ったところにある。
③ 顔師古はいう。如淳は顔に入墨をした人というが、委だけの音は倭の音「iwa」と異なる。以下略
これをもう少し具体的に訳すと
①' 如淳はいう。顔に入墨をしているので倭と呼ばれている国は、帯方の東南に万里行ったところにある。
③' 顔師古はいう。如淳は、顔に入墨をしているのでその国は倭と呼ばれているというが、委だけの音は倭の音「iwa」と異なる(顔に入墨をしている意味の委は国名の倭とは音が異なる)。顔に入墨をしているから倭と呼ばれているのではない。以下略
となります。それではいよいよ②の解釈に入りますが、まずはじめに従来説を紹介します。
従来説 ② 臣瓚はいう。倭は国名である。顔に入墨をしているのをいうのではない。故にこれを委という。
これでは意味がさっぱり通じません。これに対し、西嶋定生氏は次のように解釈しました。
西嶋説 ② 臣瓚はいう。倭は国名である。墨を用いる(顔に入墨をする)ので倭人のことを委というのは実を得たものではない。
この説は確かに筋は通るため、こういうことなのかな、と『縄文から「やまと」へ』を書いたときは思っていたのですが、今もう一度読み直してみると、訳文と原漢文との間に違和感を覚えるのです。この「不謂・・・謂・・・」のように同じ漢字の繰り返しには、中国人は特に気を使っているはずです。同等の「謂」という漢字を使っていながら、後の「謂」を前の「謂」が否定するという構文はあるのだろうかという疑問と、直訳では「・・・と言うことを言わない」という奇妙な文章になってしまうという疑問です。西嶋説②の後半のように意訳っぽく解釈すると不自然に感じませんが、そのまま訳すとおかしなことになります。こういう文章が果たしてあるのだろうか、という単純ですが、重い疑問を感じたのです。
坂田隆氏はこの②ついて、『日本の国号』で次のように訳しています。
坂田説② 臣瓚はいう。倭は国名である。墨を用いるを言わず。古くはこれを委と言う。
坂田氏は「故」を「古くは」と訳したのです。「倭は昔は委と言った」ということになります。思うに坂田氏の頭の中には、金印「漢委奴国王」の「委」があったのではないかと思われます。私はかつて坂田説に賛同しましたが(1998年7月25日発行「『隋書俀国伝』の証明」)、今、顔師古注を改めて読み返してみると、疑問点が浮かんでくるのです。金印「漢委奴国王」が発見されたのは1784年とされており、そこに「倭」が「委」と書かれていたことは、如淳も臣瓚も顔師古も知る由もなく、しかも『漢書』地理志本文においても「倭」であり、それよりも古い史書『山海経』においても「倭」であり、「委」という字はどこにも存在しません。臣瓚が「古くは委と言った」という可能性は低いように思えるのです。
-つづく-
コメント