【九州以外の説】
「九州以外の説」がなぜ成立しないのか、その理由も『隋書』が教えてくれています。これまでに何度か挙げたことのある次の記事です。
① 其国境 東西五月行 南北三月行 各至於海
② 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
③ 自魏至于斉梁代與中国相通
④ 有阿蘇山
⑤ ・・・経都斯麻国迥在大海中 又東至一支国
参考 ⑤' ・・・対海国・・・南渡一海千余里・・・至一大国・・・(『魏志』倭人伝)
①は⑤と⑤'から、『魏志』倭人伝の方角で ①' 其国境 東西三月行 南北五月行 各至於海 となります。そこに阿蘇山(④)があったのですから、①が示しているところは九州以外にはありません。またその国は、卑弥呼が居た魏の時代から斉・梁、つまり五世紀末から六世紀中頃まで、そしてこの隋の時代まで中国とお互いに通交していたと言っているのです(③)。
当然通交する国の主体はその都です。今の邪靡堆は魏志でいう邪馬臺だといい、都の移動もなく、卑弥呼の時代から少なくとも七世紀初めまでは邪馬台国は九州にあったことを示しています。中国正史上、邪馬台国が登場してから、邪馬台国は九州以外には存在しないのです。世論を二分している、あるいは他を圧倒している近畿説であっても成立不可能なのです。
【東遷説】
東遷説を唱えている研究者の多くは考古遺物を根拠としています。これらの研究者には、文献上①~④を否定する絶対的な根拠が必要になるのですが、そこに切り込んでいる人を私はいまだ知りません。しかしこれらを否定するということは、中国正史を否定することになり、邪馬台国だの、卑弥呼だのと語ること自体できないということになります。邪馬台国、卑弥呼は別というのでは日本古代史を研究する資質が疑われます。
隋の時代以後の邪馬台国東遷はあり得ません。かといって卑弥呼以前に東遷したのでは記録に合わなくなります。邪馬台国はずっと九州にあったのです。
作家の百田尚樹さんは、YouTube で自著『日本国紀』の説明をしていますが、その中で、神武天皇は邪馬台国を滅ぼしてから東遷したと言っています。しかし邪馬台国は七世紀にはまだ九州に存在していました。『日本書紀』の神武天皇の大阪湾に入ってからの行動が、3000~2000年前の地形と合致しており、神武天皇即位を紀元前660年とするのは無理としても、神武天皇の東遷はあったのではないか、としています。『日本書紀』が描写する大阪湾の地形は新しくても2000年前であり、『日本書紀』に邪馬台国が登場しないことから、東遷前に神武天皇が邪馬台国を滅ぼしたという考えに至ったということのようです。しかしそれは卑弥呼の時代よりも二百数十年以上前のことになり、時系列上あり得ません。百田氏はいったいどうしてしまったのか、と心配になります。
私は、邪馬台国ではない勢力が、九州から近畿大和に東進したとみています(『旧唐書』日本国伝に「日本国者倭国之別種也」とあり、この「倭国之別種」の東進行動が神武東遷譚になった可能性があります)。「神武天皇が2000年以上前に邪馬台国を滅ぼした」としなければ、百田説もまだ通用したかなと思います。これでは『魏志』倭人伝から『隋書』俀国伝までの中国正史の記録を全否定してしまうことになります。
とにかく、少なくても七世紀の阿毎多利思北孤の時代までは邪靡堆(邪馬臺)は九州にあったのですから、その間に邪馬台国が滅亡したり東遷することは全くあり得ないのです。
日本古代史研究の基本は、まず中国正史を通して整合性のある歴史を構築することだと私は考えています。『日本書紀』や考古学的資料はその次の段階のものであり、中国正史を通して整合性のある歴史を構築した後の裏付けとしての史料だと思っています。中国正史の中でも『隋書』俀国伝を読めば、『魏志』倭人伝のみから邪馬台国を探し出す行為がどれだけ無意味で非科学的であるかがわかるはずです。
私たちは中国史料と日本史料が一致することを前提として研究しているのではなく、それが一致するかしないかを研究し、正しい歴史を構築しようとしているのです。
まったく異なるものであるのに、そこから同じものを見つけようとし、見つからないときはなんとか同じように見せようとしたり、終(しま)いには、見つからないのはその史書が偽物だからだとして切り捨てたりするのは学問とは言えません。
研究の第一歩を間違えないこと、これがすべてです。
「九州以外の説」がなぜ成立しないのか、その理由も『隋書』が教えてくれています。これまでに何度か挙げたことのある次の記事です。
① 其国境 東西五月行 南北三月行 各至於海
② 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
③ 自魏至于斉梁代與中国相通
④ 有阿蘇山
⑤ ・・・経都斯麻国迥在大海中 又東至一支国
参考 ⑤' ・・・対海国・・・南渡一海千余里・・・至一大国・・・(『魏志』倭人伝)
①は⑤と⑤'から、『魏志』倭人伝の方角で ①' 其国境 東西三月行 南北五月行 各至於海 となります。そこに阿蘇山(④)があったのですから、①が示しているところは九州以外にはありません。またその国は、卑弥呼が居た魏の時代から斉・梁、つまり五世紀末から六世紀中頃まで、そしてこの隋の時代まで中国とお互いに通交していたと言っているのです(③)。
当然通交する国の主体はその都です。今の邪靡堆は魏志でいう邪馬臺だといい、都の移動もなく、卑弥呼の時代から少なくとも七世紀初めまでは邪馬台国は九州にあったことを示しています。中国正史上、邪馬台国が登場してから、邪馬台国は九州以外には存在しないのです。世論を二分している、あるいは他を圧倒している近畿説であっても成立不可能なのです。
【東遷説】
東遷説を唱えている研究者の多くは考古遺物を根拠としています。これらの研究者には、文献上①~④を否定する絶対的な根拠が必要になるのですが、そこに切り込んでいる人を私はいまだ知りません。しかしこれらを否定するということは、中国正史を否定することになり、邪馬台国だの、卑弥呼だのと語ること自体できないということになります。邪馬台国、卑弥呼は別というのでは日本古代史を研究する資質が疑われます。
隋の時代以後の邪馬台国東遷はあり得ません。かといって卑弥呼以前に東遷したのでは記録に合わなくなります。邪馬台国はずっと九州にあったのです。
作家の百田尚樹さんは、YouTube で自著『日本国紀』の説明をしていますが、その中で、神武天皇は邪馬台国を滅ぼしてから東遷したと言っています。しかし邪馬台国は七世紀にはまだ九州に存在していました。『日本書紀』の神武天皇の大阪湾に入ってからの行動が、3000~2000年前の地形と合致しており、神武天皇即位を紀元前660年とするのは無理としても、神武天皇の東遷はあったのではないか、としています。『日本書紀』が描写する大阪湾の地形は新しくても2000年前であり、『日本書紀』に邪馬台国が登場しないことから、東遷前に神武天皇が邪馬台国を滅ぼしたという考えに至ったということのようです。しかしそれは卑弥呼の時代よりも二百数十年以上前のことになり、時系列上あり得ません。百田氏はいったいどうしてしまったのか、と心配になります。
私は、邪馬台国ではない勢力が、九州から近畿大和に東進したとみています(『旧唐書』日本国伝に「日本国者倭国之別種也」とあり、この「倭国之別種」の東進行動が神武東遷譚になった可能性があります)。「神武天皇が2000年以上前に邪馬台国を滅ぼした」としなければ、百田説もまだ通用したかなと思います。これでは『魏志』倭人伝から『隋書』俀国伝までの中国正史の記録を全否定してしまうことになります。
とにかく、少なくても七世紀の阿毎多利思北孤の時代までは邪靡堆(邪馬臺)は九州にあったのですから、その間に邪馬台国が滅亡したり東遷することは全くあり得ないのです。
日本古代史研究の基本は、まず中国正史を通して整合性のある歴史を構築することだと私は考えています。『日本書紀』や考古学的資料はその次の段階のものであり、中国正史を通して整合性のある歴史を構築した後の裏付けとしての史料だと思っています。中国正史の中でも『隋書』俀国伝を読めば、『魏志』倭人伝のみから邪馬台国を探し出す行為がどれだけ無意味で非科学的であるかがわかるはずです。
私たちは中国史料と日本史料が一致することを前提として研究しているのではなく、それが一致するかしないかを研究し、正しい歴史を構築しようとしているのです。
まったく異なるものであるのに、そこから同じものを見つけようとし、見つからないときはなんとか同じように見せようとしたり、終(しま)いには、見つからないのはその史書が偽物だからだとして切り捨てたりするのは学問とは言えません。
研究の第一歩を間違えないこと、これがすべてです。
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