中国正史を通して整合する歴史を構築しようとする研究者を今まで見たことがない、と私はずっと言ってきました。ところが最近、『隋書』『旧唐書』『新唐書』を挙げて説明するYouTube Channelが目に付くようになりました。そこではどのような見方がされているのか、見てみたいと思います。

 気になったのは、「むすび大学」の小名木善行さんの説明です。『隋書』を扱っているなんてどんなことを言っているのだろうかと興味津々。阿蘇山の話も出てきて、やっとこういう人が出てきたか、とうれしくなり、続いて『旧唐書』『新唐書』も出てきたので、いよいよ私と同じような考え方の人が現れたんだな、とうれしくなりました。
 ところが『新唐書』のところで大きな間違いを公然と話していることに、これまでの気持ちが一気に冷めてしまうことに。

 小名木氏は、『新唐書』が書かれたのは『古事記』『日本書紀』が成立した時代より古く、『隋書』『旧唐書』『新唐書』(天御中主から彦渚、そして初代神武天皇から第58代光孝天皇までの歴代天皇名が書かれている.)『古事記』『日本書紀』の五書はみな同じことを言っている、というのです。これは日本の歴史を中国が先に書いていて、それは日本の史書と一致しているから、『新唐書』に書かれていることは史実である、というふうに聞こえます。しかしこれは事実とは明らかに異なります。『新唐書』が成立したのは1060年てあり、『古事記』は712年、『日本書紀』は720年であり、『新唐書』が一番新しいのです。そこからしてまず間違っています。
 『隋書』には俀王の阿毎多利思北孤は出てきますが、『日本書紀』や『新唐書』に書かれているようなことは一切記録にはありません。『旧唐書』には『日本書紀』の記録と同様な記事はありますが天皇系譜記事はなく、日本国は倭国の別種だと書かれており、『新唐書』と同じと言えるのはその一部であり、それも日本の史書だけです。

 実はもう一書、重要な中国史書があります。『宋史』という1345年完成の正史です。そこには次のようなことが書かれています。

雍熙元年(984)、日本国の僧奝然が、その徒五、六人と海上より来て、銅器十余亊と本国の『職員令』『王年代記』おのおの一巻を献じた。

 これによれば、中国が『王年代記』を見たのは984年であり、『旧唐書』完成945年の後、『新唐書』完成の前になります。『旧唐書』に天皇系譜記事がないのは『王年代記』のような書物がなかったからであり、『新唐書』に天皇系譜記事が詳しく書かれれているのは『王年代記』があったからということになります。しかし、日本国が魏の時代から中国と通交していた国であるならば、984年にもなって『王年代記』を参考にしなくても、そういった記録は入っていたはずであり、『旧唐書』になって初めて日本国条が現れ、『新唐書』になって初めて天皇系譜記事が現れるのは、日本国は新興国(中国との通交において)であり、倭国はそれまで事実上の日本列島の代表だったことを裏付けるものと言えます。

 ここで一つ重要な問題があります。それは、小名木氏が、九州に存在する国の名に使われてい「倭」という字もすべて「やまと」と読んでいることです。「倭」にはそもそも「やまと」という読みはありません。それなのになぜ畿内大和では「倭」を「やまと」と読むようになったのでしょうか。それを説明もなしに、「倭」はすべて「やまと」と読みます、では、皆さん、納得できないと思います。

 日本の歴史書で、最初に「倭」を「やまと」と読んだのは『古事記』です。そこでは天皇の名や土地名に多く使われています。『古事記』は712年に完成していますから、「倭」と書いて「やまと」と読まれるようになったのは712年より前のことになります。
 745年頃に成立したと思われる『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』という書物があるのですが、そこには元興寺建立(596)後の651年に露盤銘がつけられ、そこに588年のこととして「山東」と「山西」いう人名が出てきます。「山東」は「やまと」、「山西」は「かわち」と読みます。「やまと」の記録はこれが最初だと思われます。『日本書紀』には「東」だけで「やまと」と読む例があります。「山東」から「山」が省略されたのです。私の調査では、「やまと」と読む漢字の変化は「山東」→「東」→「倭」となります。また、この露盤銘がつけられた時の文中に大和国、倭国も登場することから、「倭」が「やまと」と読まれるようになったのは、6世紀後半の可能性を含み651年までの間ということになります。

 『後漢書』には、57年倭奴国が遣使し、後漢の光武帝は紫綬を授けたとあります。この紫綬が志賀島で発見された「漢委奴国王」と彫られた金印だとされています。小名木氏は、この倭奴国を「やまとのなのくに」と読んでいます。倭奴国の存在が記されているのは1世紀中頃のことです。「倭」と書いて「やまと」と呼ばれるようになったのは6世紀後半から7世紀中頃になってからです。「やまと」という発音がいつから使われたのか、またその語源は何なのかがわからないと、こういった大きな間違いを起こします。これは有名な学者でも同じことを言っている人がいるので仕方ないのですが、「やまとかぶれ」の象徴のようなものと言えます。
 ちなみに、卑弥呼の国の名は、『魏志』では「邪馬壹」、『後漢書』では「邪馬臺」、『隋書』では「邪靡堆」「邪馬臺」であり、決して「邪馬台」ではなく、したがって「やまと」と読むことはありません。「臺」と「台」は別字であり、「臺」を「台」に替えることはできず、「台」は「と」と読みますが「臺」は「と」とは読まないからです。

 せっかく連続する中国正史の整合性から日本列島の歴史を考える人が現れたと思ったのですが、結局は『日本書紀』、「やまとかぶれ」でしかなかったということで、残念でした。


※「やまと」の語源 については、拙著『倭と山東・倭・日本』(電子書籍『縄文から「やまと」へ』改訂版)、『縄文から「やまと」へ』で詳述しています。