5月29日、吉野ケ里遺跡の北墳丘墓の西150mのところにある日吉神社の跡地から石棺墓が発見されました。日吉神社は小高い所にあったため関係者の上り下りが大変になり、別のところに移設されたことから、「謎のエリア」と呼ばれているこの部分の調査がはじめられたということです。
 石棺墓の内寸は、長さ約180cm、幅約36cmで、現在のところ、被葬者は小柄で身分の高い人、とされているようです。埋葬品などについては今週木曜日頃にはわかるのではないかとのことです。

 ところで日吉神社があったところはどの辺りなのか、私がはじめて吉野ケ里遺跡を訪れたとき(1998年)購入した、1994年2月 佐賀県教育委員会発行の「吉野ケ里遺跡」の遺跡範囲図によって、確認しておきたいと思います。

 次の図で、色が付けられた大きなブロックの最上部にある北墳丘墓の左側の別ブロック(色が付けられた)下側部分に、日吉神社はあったようです。

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 全体での位置は、下図で真ん中より少し下の、太い黒い線と点線で囲まれた部分の一番上の黒い線の外側左斜め上になります。

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 日吉神社があった丘陵(石棺墓が発見されたところ)は、実際現地で見ないとわかりませんが、一枚目の図の等高線を見ると、上部は長円形になっていますが、裾の部分では円に近くなっています。縮尺から読むと、その最大直径は150m位になるようです。この石棺墓は卑弥呼の墓ではないかと大きな期待が寄せられているようですが、それは今後の調査を待つしかありません。

 ただ一つ、『魏志』倭人伝によれば「卑弥呼以死大作冢径百余歩」とあり、卑弥呼の墓は円墳であるということであり、この点から言えば、纏向遺跡にある前方後円墳の箸墓古墳より圧倒的に可能性があるということです。
 私は処女作「『隋書俀国伝』の証明」で、当初、邪靡堆(邪馬臺)は筑後市、八女市辺りだとしていましたが、古代の有明海の海岸線はかなり内陸まで入り込んでいたということを知ってから、吉野ケ里遺跡の可能性を大きく感じるようになりました(本ブログの『隋書俀国伝』の証明)。