「倭面土国」をはじめ「倭面上国」「倭面土地」「倭面国」という国名が、中国史書にも日本の史書にもあることを知ったとき、まともには解けそうもない日本古代史の謎世界の深さを痛烈に感じたものでした。
これらの国名が書かれていた史書と内容は以下のとおりです。
翰苑 660年頃
④後漢書曰安帝永初元年有倭面上国王師升至
⑤後漢書光武中元年二倭国奉貢朝賀使人自称大夫光武賜以印綬 安帝永初元年倭王師升等献生口百六十
通典 801年
⑥安帝永初元年倭面土国王師升等献生口(北宋版)
⑦安帝永初元年倭面土地王師升等献生口(1688年成立 松下見林『異称日本伝』より)
釈日本紀 1300年頃
⑧後漢書云孝安皇帝永初元年冬十月倭面国遣使奉献註曰倭国去楽浪万ニ千里男子皆點面文身以其文左右大小別尊卑之差
日本書紀纂疏 1455年
⑨倭面国此方男女黥面文身故如面字呼之
➉ 安帝永初元年倭面上国王師升献生口百六十人
唐類函 1603年
⑪安帝永初元年倭国土地王師升等献生口
⑫安帝永初元年倭国土地王師升等献生口(1688年成立 松下見林『異称日本伝』より)
※原文の「師」は「帥」、「光」は「建」、「年二」は「二年」の間違い。
これらの史書の成立順序は、『翰苑』、『通典』、『釈日本紀』、『日本書紀纂疏』、『唐類函』となります。『通典』の「倭面土国」の「土国」は「土」も「国」も「国」を意味していると考えられ、「倭面土地」の「土地」は松下見林が『唐類函』を見て、『通典』も「倭面土地」と書いてあると勘違いした可能性がありそうです。その『唐類函』は「倭面土国」の「土国」を単純に「土地」と書き間違えた可能性があります。⑤の「倭国」は建武中元二年のことなので「倭奴国」が正しいのですが、『翰苑』はこういったことのへの正確性が少し欠けているようにみえます。
この中で、不思議なのは『翰苑』の「倭面上国」です。なぜ「上」なのか、意味がわかりません。ただ現存する『翰苑』は九世紀頃の書写だと言われており、そこで考えられるのは写し間違いです。現『翰苑』のものは、写本元の『翰苑』には「倭面土国」と書かれていたものを「倭面上国」と写し間違えたもので、そして『通典』のものは、写し間違えた現『翰苑』ではなく、もとの『翰苑』を見て写したものだったと考えれば筋は通ります。
『釈日本紀』の⑧は、「倭面国」は「倭国」であることを承知している書き方であり、『日本書紀纂疏』の⑨も「倭面国」となっていて、「土国」は「国」のことであると理解していることが伺われます。もし「倭面土」がヤマトと読むのであれば、日本の史書が⑧⑨のように「土」を省略して書くことはあり得ません。ヤマトと読めなくなるからです。このことからわかるのは、「倭面土」は「ヤマト」とは読まなかった、ということです。
➉は写し間違えたほうの現『翰苑』によったものと考えられます。
それでは「倭面土国」「倭面国」という国名はなぜ生まれたのでしょうか。まず知っておかなければならないのは、中国史書の三書は正史ではないということです。特に『翰苑』は誤字脱字が多く、そのまま鵜呑みにするのは危険です。そして正史には、そもそもこれらの国名は存在しません。
顔師古は581~645年の人です。『翰苑』は660年頃の成立とされていますから、『翰苑』の撰者・張楚金は『漢書』地理志の顔師古注を見ることができたはずです。これを見た張楚金が、倭国は「委面の国」であり、さらに「委」は「倭」の古語だと理解したとすれば、「委面」は「倭面」であり、「委面の人の国」は「委面国」すなわち「倭面国」だと考えたとしても不思議ではありません。「倭面土国」の「土」は、”中央から遠く離れた夷蛮が住んでいるところ” の意味だとすれば、「倭面土国」は「顔に入れ墨をした、遠いところにある国・倭国」ということになります。
「倭面土国」という倭国の新しい名を思いついたのは、史書の成立順からすると、『翰苑』の撰者・張楚金だった可能性が高くなります。
ただ、それが『翰苑』だったのかどうかは別にしても、「倭面」に「土」がつくことで、「倭面土」が「やまと」と読みやすくなってしまい、さらにそれが日本古代史を深い闇に引きずり込むことになってしまったことを考えると、偏った史料解釈の怖さをひしひしと感じてしまいます。断っておきますが、これは史書のせいではなく、それを扱う者の責任だ、ということです。
つづく
これらの国名が書かれていた史書と内容は以下のとおりです。
翰苑 660年頃
④後漢書曰安帝永初元年有倭面上国王師升至
⑤後漢書光武中元年二倭国奉貢朝賀使人自称大夫光武賜以印綬 安帝永初元年倭王師升等献生口百六十
通典 801年
⑥安帝永初元年倭面土国王師升等献生口(北宋版)
⑦安帝永初元年倭面土地王師升等献生口(1688年成立 松下見林『異称日本伝』より)
釈日本紀 1300年頃
⑧後漢書云孝安皇帝永初元年冬十月倭面国遣使奉献註曰倭国去楽浪万ニ千里男子皆點面文身以其文左右大小別尊卑之差
日本書紀纂疏 1455年
⑨倭面国此方男女黥面文身故如面字呼之
➉ 安帝永初元年倭面上国王師升献生口百六十人
唐類函 1603年
⑪安帝永初元年倭国土地王師升等献生口
⑫安帝永初元年倭国土地王師升等献生口(1688年成立 松下見林『異称日本伝』より)
※原文の「師」は「帥」、「光」は「建」、「年二」は「二年」の間違い。
これらの史書の成立順序は、『翰苑』、『通典』、『釈日本紀』、『日本書紀纂疏』、『唐類函』となります。『通典』の「倭面土国」の「土国」は「土」も「国」も「国」を意味していると考えられ、「倭面土地」の「土地」は松下見林が『唐類函』を見て、『通典』も「倭面土地」と書いてあると勘違いした可能性がありそうです。その『唐類函』は「倭面土国」の「土国」を単純に「土地」と書き間違えた可能性があります。⑤の「倭国」は建武中元二年のことなので「倭奴国」が正しいのですが、『翰苑』はこういったことのへの正確性が少し欠けているようにみえます。
この中で、不思議なのは『翰苑』の「倭面上国」です。なぜ「上」なのか、意味がわかりません。ただ現存する『翰苑』は九世紀頃の書写だと言われており、そこで考えられるのは写し間違いです。現『翰苑』のものは、写本元の『翰苑』には「倭面土国」と書かれていたものを「倭面上国」と写し間違えたもので、そして『通典』のものは、写し間違えた現『翰苑』ではなく、もとの『翰苑』を見て写したものだったと考えれば筋は通ります。
『釈日本紀』の⑧は、「倭面国」は「倭国」であることを承知している書き方であり、『日本書紀纂疏』の⑨も「倭面国」となっていて、「土国」は「国」のことであると理解していることが伺われます。もし「倭面土」がヤマトと読むのであれば、日本の史書が⑧⑨のように「土」を省略して書くことはあり得ません。ヤマトと読めなくなるからです。このことからわかるのは、「倭面土」は「ヤマト」とは読まなかった、ということです。
➉は写し間違えたほうの現『翰苑』によったものと考えられます。
それでは「倭面土国」「倭面国」という国名はなぜ生まれたのでしょうか。まず知っておかなければならないのは、中国史書の三書は正史ではないということです。特に『翰苑』は誤字脱字が多く、そのまま鵜呑みにするのは危険です。そして正史には、そもそもこれらの国名は存在しません。
顔師古は581~645年の人です。『翰苑』は660年頃の成立とされていますから、『翰苑』の撰者・張楚金は『漢書』地理志の顔師古注を見ることができたはずです。これを見た張楚金が、倭国は「委面の国」であり、さらに「委」は「倭」の古語だと理解したとすれば、「委面」は「倭面」であり、「委面の人の国」は「委面国」すなわち「倭面国」だと考えたとしても不思議ではありません。「倭面土国」の「土」は、”中央から遠く離れた夷蛮が住んでいるところ” の意味だとすれば、「倭面土国」は「顔に入れ墨をした、遠いところにある国・倭国」ということになります。
「倭面土国」という倭国の新しい名を思いついたのは、史書の成立順からすると、『翰苑』の撰者・張楚金だった可能性が高くなります。
ただ、それが『翰苑』だったのかどうかは別にしても、「倭面」に「土」がつくことで、「倭面土」が「やまと」と読みやすくなってしまい、さらにそれが日本古代史を深い闇に引きずり込むことになってしまったことを考えると、偏った史料解釈の怖さをひしひしと感じてしまいます。断っておきますが、これは史書のせいではなく、それを扱う者の責任だ、ということです。
つづく
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