正史ではない中国史書や日本の史書の一部に、「倭面土国」という見慣れない国名が登場します。この倭面土や倭奴を「やまと」と読む学者や研究者がいるのですが、このことを知って愕然とした私は、私の疑問から発した私見を、拙著『縄文から「やまと」へ』(現『倭と山東・倭・日本』)の第二章 山東・やまと・倭 五「倭面」の国について で、発表しました。多岐にわたり書いたのですが、それがかえって複雑でわかりにくくしてしまったかもしれない、という胸につかえたものがあり、今回私の頭の中の整理もかねて、要点を絞って書いてみることにしました。内容が大幅に縮小されたものになると思いますので、詳細を知りたい方は拙著を読んでいただければと思います。
「倭面土」という国名が史書に現れるようになったのは、『漢書』地理志に付けられた顔師古注(七世紀中頃)の影響によるものと私は考えています。そこには次のように書かれています。
①如淳曰。如墨委面、在帯方東南万里。
②臣瓉曰。倭是国名不謂用墨故謂之委也。
③師古曰。如淳云如墨委面、蓋音委字耳此音非也倭音一戈反。今猶有倭国。魏略云倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種。
ここでは②の解釈を問題としますので、「倭是国名」以下には句読点を入れていません。この顔師古注を西嶋定生氏の見解にもとづき訳すと次のようになります。
①如淳はいう。倭人は顔面に入れ墨をした人で、その国は帯方郡の東南、万里行ったところにある。
②臣瓉はいう。倭は国名であり、墨を用いるので倭人のことを委という、というのではない。
③師古はいう。如淳は ”倭人は顔面に入れ墨をした人” というが、委の字の音は倭の音一戈反(iwa)とは異なる。今も倭国はある。魏略はいう。倭は帯方の東南の大海の中に山島により国をつくっており、海を千里渡るとまた国があり、みな倭種である。
②の「臣瓉曰」以下の解釈について、私は坂田隆氏の「墨を用いるをいわず、古くはこれを委という」という説に魅かれています。「故」を「古くは」と読むのです。文の中ほどにある「故」が「ゆえに」を意味するのであれば、「故」の前の「不謂用墨」が原因であり、その結果が「故」の次にある「謂之委也」だということになりますが、これだと「墨を用いるをいわず。ゆえにこれを委という」となり、意味が通じなくなってしまいます。そんなこともあり、西嶋氏のような説が登場したのだと思いますが、「謂う」と書いてある部分を「謂わない」と否定している文型になり、漢文にこう言った言い方があるのかどうか、専門家に訊かないとわかりませんが、少し引っかかります。「故=古くは」は盲点だったかもしれません。
顔師古の見解の正否は別として、如淳が「委」と「倭」の関係に言及したことが、のちに「倭面土」「倭面」などの表現をつくり出すことになったのではないか、と考えられるのです。
「倭面土」という国名が史書に現れるようになったのは、『漢書』地理志に付けられた顔師古注(七世紀中頃)の影響によるものと私は考えています。そこには次のように書かれています。
①如淳曰。如墨委面、在帯方東南万里。
②臣瓉曰。倭是国名不謂用墨故謂之委也。
③師古曰。如淳云如墨委面、蓋音委字耳此音非也倭音一戈反。今猶有倭国。魏略云倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種。
ここでは②の解釈を問題としますので、「倭是国名」以下には句読点を入れていません。この顔師古注を西嶋定生氏の見解にもとづき訳すと次のようになります。
①如淳はいう。倭人は顔面に入れ墨をした人で、その国は帯方郡の東南、万里行ったところにある。
②臣瓉はいう。倭は国名であり、墨を用いるので倭人のことを委という、というのではない。
③師古はいう。如淳は ”倭人は顔面に入れ墨をした人” というが、委の字の音は倭の音一戈反(iwa)とは異なる。今も倭国はある。魏略はいう。倭は帯方の東南の大海の中に山島により国をつくっており、海を千里渡るとまた国があり、みな倭種である。
②の「臣瓉曰」以下の解釈について、私は坂田隆氏の「墨を用いるをいわず、古くはこれを委という」という説に魅かれています。「故」を「古くは」と読むのです。文の中ほどにある「故」が「ゆえに」を意味するのであれば、「故」の前の「不謂用墨」が原因であり、その結果が「故」の次にある「謂之委也」だということになりますが、これだと「墨を用いるをいわず。ゆえにこれを委という」となり、意味が通じなくなってしまいます。そんなこともあり、西嶋氏のような説が登場したのだと思いますが、「謂う」と書いてある部分を「謂わない」と否定している文型になり、漢文にこう言った言い方があるのかどうか、専門家に訊かないとわかりませんが、少し引っかかります。「故=古くは」は盲点だったかもしれません。
顔師古は、「顔面に墨を委(つ)む」から倭といった」という如淳説を否定しています。しかし現在は、金印「漢委奴国王」の「委」は「倭」であることに異を唱えている人はほとんどいません。顔面に入れ墨をしていたことは別として、「倭」は「委」とも表現された、とみてよいのではないかと私は単純に思っています。顔師古は如淳説を否定し臣瓉説を支持していますが、坂田隆氏の言うように「古くはこれを委という」と読むのだとすると、それは、③で「委」を否定している顔師古の考え方と異なることになります。当時としてみれば、後世日本から「漢委奴国王」と彫られた金印が出土するなどということは考えもしなかったわけであり、「漢委奴国王」金印の存在を知っていれば、顔師古も別の見解を述べていたのではないかと想像できます。「顔面に墨を委(つ)む」から倭といった」という如淳説は正しかったのかもしれないし、また「委」は「倭」の略字であったりもして、「漢委奴国王」金印発見後は、顔師古のように ”「倭」は「委」ではない” とは言い切れなくなってきたと言えます。
顔師古の見解の正否は別として、如淳が「委」と「倭」の関係に言及したことが、のちに「倭面土」「倭面」などの表現をつくり出すことになったのではないか、と考えられるのです。
つづく
※ 「倭面土」「倭面」などの表現に関する部分を除き、顔師古注については、その後新しい解釈を11月9日、10日の〔すっきりした 顔師古注「臣瓚 曰…」の解釈1、2〕に提示しましたのでそちらをご参照ください。
※ 「倭面土」「倭面」などの表現に関する部分を除き、顔師古注については、その後新しい解釈を11月9日、10日の〔すっきりした 顔師古注「臣瓚 曰…」の解釈1、2〕に提示しましたのでそちらをご参照ください。
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