日本古代史一人旅

必要なのは 結論ありきのストーリーではなく 史料に基づいたヒストリー

2022年08月

 日本(やまと)は使者を送ってくる唐に対して、天智天皇3年(664)には、対馬、壱岐、筑紫に防人と烽を置き、筑紫に水城を築き、4年(665)には、長門、筑紫の大野と椽に城を築き、6年(667)には、倭(やまと)に高安城、讃吉の山田郡に屋嶋城、対馬に金田城 ...

 天智天皇4年(665)の記事を飛ばして、先に天智天皇6年(667)の記事をみてみます。この年の3月19日、天皇は近江に遷都しています。同じ年の11月9日には、百済鎮将劉仁願が熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を送ってきています。その間、お互いに通交はあ ...

 白村江敗戦の翌年の664年2月9日、天智天皇は大海人皇子(のちの天武天皇)に命じて、冠位の階の名を増やしたり換えたりすること、氏の上、民部、家部などのことを宣した、とあります。この記事からは、これが戦争に負けた国が最初にすることなのか、という疑問を先ず ...

 唐・新羅軍と戦う百済の救援に向かった日本水軍は、663年8月27日白村江で唐の水軍と合戦し、翌日28日あっけなく敗れます。この救援軍は、『日本書紀』では「日本(やまと)水軍」と書かれていますが、『旧唐書』「劉仁軌伝」では「仁軌偶倭兵於白江之口」と、戦っ ...

 江戸時代に始まった日本古代史研究は、今もって『魏志』倭人伝という魔物にとりつかれているように思えてなりません。「邪馬台国は東征あるいは東遷した」説や「邪馬台国は畿内大和である」説は『隋書』を無視しなければ成立しません。私が不思議に思うのは、一つの重要な ...

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