『魏志』倭人伝をどんなに工夫して読んでも邪馬臺国がどこにあったのかを確定できないことから、『魏志』倭人伝の正当な存在を否定する研究者がついて出てくるようになりました。『魏志』倭人伝は『日本書紀』をもとに書いたものだということを言う人もいて、目眩がしてひっくり返ってしまいそうです。
 『魏志』は280年頃陳寿によって書かれました。その後432年に范曄によって書かれた『後漢書』には邪馬臺国、卑弥呼も登場し、656年には完成していた『隋書』にも「魏志所謂邪馬臺者也」とあり、『日本書紀』完成の720年以前に、『魏志』以外の中国正史が、『魏志』倭人伝には邪馬臺、卑弥呼のことが書かれていたことをはっきりと記しています。『魏志』だけなら邪馬臺国、卑弥呼の存在を否定することは可能かもしれませんが、『後漢書』『隋書』の記録までも否定することは不可能だと思います。
 かつて安本美典氏は、『魏志』倭人伝などの国外資料、『古事記』『日本書紀』などの国内資料、そして考古学的な遺物、これらの資料を合わせて考えるとき、邪馬台国の位置なども決定できる、これが唯一の方法だろう、と言っています(『吉野ケ里の証言 』1989年7月16日発行)。ただこの方法が成立するのは、『魏志』倭人伝、『後漢書』、『隋書』の「邪馬臺(壹)」と『日本書紀』にいう「やまと」が同一国である場合に限ります。しかし安本氏はこのことを証明せずに、「邪馬臺=やまと」を前提としてしまいました。方法は正しかったかもしれませんが方針を間違えてしまったようです。
 大和岩雄氏もかつて「東アジアの古代文化」95号(1998年)に、「『魏志』以外の中国文献の邪馬台国」という論考を載せたことがありました。題名からして私は大きな期待を持って読んだのですが、そこには大きな落胆が残っただけでした。「『魏志』以外の中国文献」と言いながら、取り上げたのは正史ではなく、『翰苑』が引用する『魏略』と『広志』の逸文であり、しかもそれはかなり誤字脱字省略が多いもので、正史である『三国志』の『魏志』の記録を捨てこの二書を優先する意味がまったく理解できませんでした。『魏略』『広志』は大和説に都合がよかったからだと私は理解していますが。このことについては拙著『縄文から「やまとへ」』(現『倭と山東・倭・日本』電子書籍)で詳述しています。

 では、なぜこのような状況になってしまったのでしょうか。その理由は私には次のようにみえます。
① 『魏志』倭人伝からはどうやっても邪馬臺国を探し出すことはできない。
② 閃きでわかった、と思ったものがあった。
③ それを裏付けるのに都合のよさそうな資料を探すと、なんとか説明がつきそうな資料があった。
④ 閃きで得たものは魅力的だったので、それを否定する資料は無視する必要があった。
⑤ 『魏志』倭人伝が偽書であれば、日本文献資料だけで解決することができる。

 簡単に言えば、多くの研究者が『魏志』倭人伝からは邪馬臺国がどこにあったのかを導き出すことは不可能だということに気が付いた、ということです。①のことに気が付き、ほかに何があるのだろうかと知恵を絞った結果、②~⑤のような方向に思考が動いた、ということなのです。①に気が付いたのは正解でしたが、その対応を間違えたのです。

 歴史は時間で繋がっています。邪馬臺国のことを知りたければ、『魏志』倭人伝以外の『後漢書』や『隋書』『旧唐書』『新唐書』も一緒にみなければ、邪馬臺国がどこにあったのか、そしてどのように発展し、どのように歴史から消えていったのかはわかりません。これは歴史を研究する者にとって基本中の基本だと思うのですが、こと日本古代史となると何かに魅入られたように異次元世界に迷い込んでしまうようです。
 少なくとも『後漢書』『魏志』『宋書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』を通して、矛盾なく説明できる歴史でなければ古代日本列島の正しい歴史とは言えない、と私は考えていますが、このような考え方を持つ研究者をいまだに見出すことができません。本当に不思議なことです。
 A時代とB時代の歴史書があるのに、自説ありきで、A時代の歴史書は優先しB時代の歴史書は軽視あるいは無視する、というのが日本古代史研究の現状です。

 邪馬臺国はどこにあったのかなど、日本古代史の混迷は『魏志』のせいではなく、研究者の姿勢のせいなのです。