『日本書紀』の時代表記を西暦に直すと、神武天皇即位は紀元前660年になります。古代天皇の在位期間や事績はそのまま信用することはできませんが、第20代安康天皇からは信頼できるとされています。そのままの『日本書紀』の紀年は、神功皇后摂政39年条にある「魏志云、明帝景初三年(239)六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝献」を基準に構成されています。神武天皇即位年を決めた上で、次に神功皇后を卑弥呼の時代に合うよう設定し、在位年調整の必要がない安康天皇に繋いでいるのです。この「倭女王」は卑弥呼のことを指していますが、「倭女王」と書き「卑弥呼」と書かないところに、畿内「やまと」は「邪馬臺」ではないことが見え隠れします。『日本書紀』は九州の邪馬臺・卑弥呼を意識して編集されたことがわかります。

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 『日本書紀』において安康天皇の前までの紀年が正しくないのはわかると思いますが、ある時代の実年を知る方法はあります。わかりやすいのは箸墓古墳の築造時期です。『日本書紀』崇神天皇10年条に大物主神と倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトコモモソヒメノミコト)の説話があり、倭迹迹日百襲姫命が亡くなると大市に墓をつくり、箸墓といった、とあります。箸墓古墳の築造推定時期は、炭素14年代測定法によれば、280~300年(±10~20年)です。崇神天皇はこの時代に生きた人ということになります。「前97年~前30年」は当然『日本書紀』の創作ということになります。

 『魏志』倭人伝の注記に「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」と書かれていることから、古代天皇の在位期間も二倍年歴で考えることができるという人もいるようですが、この二倍年歴は九州の倭人の数え方であり畿内ヤマト人も同じだったかどうかはわかりません。『日本書紀』が書かれた時代の畿内ヤマト人は北東アジア系渡来人の時代になっていたということも考慮する必要があります。
 さらにこの注記の解釈に対して私は「?」を感じます。「不知正歳四節」とは「春夏秋冬といった季節をもって1年とすることを知らない」という意味で、「春耕秋収為年紀」は「春に耕し秋に収穫するという行為をもって1年とする」という意味ではないかと思えるのです。つまり「春夏秋冬で1年とするのではなく、春に耕し(種を蒔き)秋に収穫し、次の種まきを迎えると次の1年が始まる」という意味なのではないか、と思うのです。
 『魏志』倭人伝にある注記「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」を二倍年歴の説明と決めつけ、『日本書紀』の古代天皇の在位期間に応用するのはかなり無理があるように私は思います。

 表の③有記事年による方法によれば、崇神天皇10年は実年では西暦305年になります。これは箸墓古墳の築造推定時期280~300年(±10~20年)の中に入ります。紀年を有記事年によって西暦に換算する方法はかなり優秀であるように思います。

 最近、日本古代史もyoutube で説明する人が増えてきているという印象があります。読んで理解するより、聞く方が簡単ですからね。検索も選択も有利ですし。私も、っと思ったりもするのですが、残念ながら、私にはまったく方法がわからないので、細々とホームページとブログで訴えていくしかないようです。