根拠のない「邪馬臺⇒ヤマト」が平然と出回るようになったのは、何によって、またいつからなのだろうか、と考えてみた時、その明確な答えを見つ出すのはなかなか難しい、というのが現実のようです。
ただ、断片的に「邪馬臺 ヤマタイ ヤマト」を比較することは可能です。13世紀末(鎌倉時代)に、卜部兼方により書かれた『釈日本紀』という『日本書紀』の注釈書があります。巻第一開題には師と生徒のやり取りが書かれており、国名についての質問に対する師の答えの中の国名「耶(邪)馬臺」には、国会図書館で閲覧した『釈日本紀』では「ヤハタイ」とカナがふってありました。このカナがふられたのはいつのものなのかは定かではありませんが、「ヤマト」とはふられていません。このカナがふられた時代は、「ヤマト」はまだ「流行」ではなかったことがわかります。

時は流れ元禄元年(1688)、松下見林の『異称日本伝』が刊行されます。『異称日本伝』は多くの中国史書を収録しています。その中には誤写と思われる部分もありますが、非常に貴重な史料集になっています。

その中の『後漢書』に出てくる「邪馬臺」には「ヤマト」とカナがふられています。このカナも最初から刊本にあったのか、それとも所有者がふったものなのかわかりませんが、一般論として、「邪馬臺」を「ヤマト」と読むようになったのはこの頃だったのではないか、と想像してもあながち間違いではないように思われます。
私は、松下見林自身が「邪馬臺」は「ヤマト」だと断定していたと考えています。約400年の時を隔てて、「邪馬臺」は「ヤマタイ」から「ヤマト」と読まれ、呼ばれるようになった、そのきっかけをつくったのは松下見林だった、という見方です。
「ヤマト」は畿内大和から拡大しました。中国史書によれば、日本列島には倭国、邪馬臺国があり、唐の時代まで存在していたことがわかります。その邪馬臺国こそが今の畿内大和、すなわち「ヤマト」であると考えるのは、当時としては当然と言えば当然のことだったのかもしれません。しかしそれから約350年経ち、『隋書』や『旧唐書』、『新唐書』を読んでも、いまだに「ト」と読まない「臺」を「ト」と読み続け、「邪馬臺」を「邪馬台」と書き畿内大和にあててしまう日本古代史研究には唖然とせざるを得ません。見てわかるように、松下見林でさえ、「邪馬臺」を「邪馬台」と書き替えてはいません。松下見林は「臺」を「台」に書き替えずに「ト」と読んだことになりますが、置かれた時代を考えれば、松下見林に同情する余地は少しあります。
もし畿内に「ヤマト」と呼ばれる地域が存在しなければ、「邪馬臺」は「ヤマト」と呼ばれることは決してなかったのだろうと、そんなことを考えてしまいます。歴史の皮肉ですかね。
※『釈日本紀』の画像は随分前に国会図書館でコピーしてもらったもので、メモは私がいれたものです。「国史大系」の『釈日本紀』にはカナはふられていません。
※松会堂 宝永三年(1706)刊の『梁書』には、「[木阝]馬臺」に「ヤマト」とカナがふられています。1706年は『異称日本伝』刊行の18年後であり、松下見林の影響を受けた可能性が考えられます。
※松下見林が「臺」を「ト」と読んだのは、当時は『日本書紀』が伝えてきた現存する国・日本(ヤマト)以外にそれに該当する国は考えられなかったからであり、音韻学によるものではありません。それを学問という分野の中で、「ト」とは読まない「臺」を「ト」と読むとしたのが橋本進吉でした(その理由は今もって私にはまったくわかりません)。このことが、「邪馬臺」を「ヤマト」と読み、「臺」とは別字の「ト」と読む「台」を使った「邪馬台(ヤマト)」が、原史書にも最初から書かれていたかのように独り歩きをしてしまうきっかけをつくってしまったのではないか、と私は考えています。
ただ、断片的に「邪馬臺 ヤマタイ ヤマト」を比較することは可能です。13世紀末(鎌倉時代)に、卜部兼方により書かれた『釈日本紀』という『日本書紀』の注釈書があります。巻第一開題には師と生徒のやり取りが書かれており、国名についての質問に対する師の答えの中の国名「耶(邪)馬臺」には、国会図書館で閲覧した『釈日本紀』では「ヤハタイ」とカナがふってありました。このカナがふられたのはいつのものなのかは定かではありませんが、「ヤマト」とはふられていません。このカナがふられた時代は、「ヤマト」はまだ「流行」ではなかったことがわかります。

時は流れ元禄元年(1688)、松下見林の『異称日本伝』が刊行されます。『異称日本伝』は多くの中国史書を収録しています。その中には誤写と思われる部分もありますが、非常に貴重な史料集になっています。

その中の『後漢書』に出てくる「邪馬臺」には「ヤマト」とカナがふられています。このカナも最初から刊本にあったのか、それとも所有者がふったものなのかわかりませんが、一般論として、「邪馬臺」を「ヤマト」と読むようになったのはこの頃だったのではないか、と想像してもあながち間違いではないように思われます。
私は、松下見林自身が「邪馬臺」は「ヤマト」だと断定していたと考えています。約400年の時を隔てて、「邪馬臺」は「ヤマタイ」から「ヤマト」と読まれ、呼ばれるようになった、そのきっかけをつくったのは松下見林だった、という見方です。
「ヤマト」は畿内大和から拡大しました。中国史書によれば、日本列島には倭国、邪馬臺国があり、唐の時代まで存在していたことがわかります。その邪馬臺国こそが今の畿内大和、すなわち「ヤマト」であると考えるのは、当時としては当然と言えば当然のことだったのかもしれません。しかしそれから約350年経ち、『隋書』や『旧唐書』、『新唐書』を読んでも、いまだに「ト」と読まない「臺」を「ト」と読み続け、「邪馬臺」を「邪馬台」と書き畿内大和にあててしまう日本古代史研究には唖然とせざるを得ません。見てわかるように、松下見林でさえ、「邪馬臺」を「邪馬台」と書き替えてはいません。松下見林は「臺」を「台」に書き替えずに「ト」と読んだことになりますが、置かれた時代を考えれば、松下見林に同情する余地は少しあります。
もし畿内に「ヤマト」と呼ばれる地域が存在しなければ、「邪馬臺」は「ヤマト」と呼ばれることは決してなかったのだろうと、そんなことを考えてしまいます。歴史の皮肉ですかね。
※『釈日本紀』の画像は随分前に国会図書館でコピーしてもらったもので、メモは私がいれたものです。「国史大系」の『釈日本紀』にはカナはふられていません。
※松会堂 宝永三年(1706)刊の『梁書』には、「[木阝]馬臺」に「ヤマト」とカナがふられています。1706年は『異称日本伝』刊行の18年後であり、松下見林の影響を受けた可能性が考えられます。
※松下見林が「臺」を「ト」と読んだのは、当時は『日本書紀』が伝えてきた現存する国・日本(ヤマト)以外にそれに該当する国は考えられなかったからであり、音韻学によるものではありません。それを学問という分野の中で、「ト」とは読まない「臺」を「ト」と読むとしたのが橋本進吉でした(その理由は今もって私にはまったくわかりません)。このことが、「邪馬臺」を「ヤマト」と読み、「臺」とは別字の「ト」と読む「台」を使った「邪馬台(ヤマト)」が、原史書にも最初から書かれていたかのように独り歩きをしてしまうきっかけをつくってしまったのではないか、と私は考えています。
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