『隋書』には、方位と関連して地理地形に関する重要な記事があります。「其国境東西五月行南北三月行各至於海」です。「其国」とは俀(倭)国です。俀国の都は邪靡堆であり、邪馬臺です。邪馬臺が畿内大和だとすると、東西南北の方角をそのまま理解したとしても、この記事内容(国の形状はおおよそ短辺3:長辺5の長方形で、その周りは海に囲まれている)にはまったく合致しません。『隋書』の記事は邪馬台国近畿説を完全に否定しています。
前回「東」と「南」について取り上げましたが、「東」は実は「南」のことだとすると、「東西五月行」は「南北五月行」となり、「南北三月行」は「東西三月行」となり、九州の形にぴったり当てはまります。『隋書』にはさらに「有阿蘇山」とあり、俀国には阿蘇山があったことがわかります。「有阿蘇山」は、俀国は九州島であることを決定的にしています。このことにより、百済から邪靡堆までの行路の方位は、すべて「東」は「南」のことであることが証明されたことになります。邪馬臺の所在は九州以外にはあり得ないのです。これは『隋書』という史書が主張していることです。しかしながら、ほとんどの研究者はこのことに触れないのです。
『魏志』倭人伝の邪馬壹(臺)への行路は詳細に書かれているように見えますが、残念ながらそこからは肝心の邪馬壹(臺)へ辿り着くことはできません。それでも『魏志』は圧倒的な研究対象となっています。それに比べ、そこには俀国はどこなのかが記されているにもかかわらず、ほとんどの研究者、近畿説者も九州説者も、『隋書』を真剣に取り上げて研究しようとしません。九州説者には絶好の史書なのですが、何とも不思議でなりません。その原因は「東」にあるのかもしれません。「東」はそのまま「東」としてよいのか、それとも「南」を意味するのか。そのどちらに転ぶかで自説が不利になることを避けたい、ということなのかもしれません。本当は日本古代史研究のターニングポイントとなる重要な文字の一つなのですが。これは『魏志』倭人伝偏重による最大の悲劇と言ってもよいかもしれません。
『隋書』の地理地形記事の無視あるいは軽視は、「日本古代史研究の前進を半世紀遅らせた」と言っても過言ではない、と私は思っています。
前回「東」と「南」について取り上げましたが、「東」は実は「南」のことだとすると、「東西五月行」は「南北五月行」となり、「南北三月行」は「東西三月行」となり、九州の形にぴったり当てはまります。『隋書』にはさらに「有阿蘇山」とあり、俀国には阿蘇山があったことがわかります。「有阿蘇山」は、俀国は九州島であることを決定的にしています。このことにより、百済から邪靡堆までの行路の方位は、すべて「東」は「南」のことであることが証明されたことになります。邪馬臺の所在は九州以外にはあり得ないのです。これは『隋書』という史書が主張していることです。しかしながら、ほとんどの研究者はこのことに触れないのです。
『魏志』倭人伝の邪馬壹(臺)への行路は詳細に書かれているように見えますが、残念ながらそこからは肝心の邪馬壹(臺)へ辿り着くことはできません。それでも『魏志』は圧倒的な研究対象となっています。それに比べ、そこには俀国はどこなのかが記されているにもかかわらず、ほとんどの研究者、近畿説者も九州説者も、『隋書』を真剣に取り上げて研究しようとしません。九州説者には絶好の史書なのですが、何とも不思議でなりません。その原因は「東」にあるのかもしれません。「東」はそのまま「東」としてよいのか、それとも「南」を意味するのか。そのどちらに転ぶかで自説が不利になることを避けたい、ということなのかもしれません。本当は日本古代史研究のターニングポイントとなる重要な文字の一つなのですが。これは『魏志』倭人伝偏重による最大の悲劇と言ってもよいかもしれません。
『隋書』の地理地形記事の無視あるいは軽視は、「日本古代史研究の前進を半世紀遅らせた」と言っても過言ではない、と私は思っています。
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