『日本書紀』には、推古天皇四年(596)に法興寺を造り終えたとあります。この法興寺は元興寺のことで、この寺の縁起を記録したのが『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』です。そこに書かれている最新の年月日は天平20年(748)6月17日となっていますので、この記録はこの時代にまとめられたものと思われます。そこには、人名に「やまと」と読む「山東」という漢字が使われていました。

山東漢大費直名麻高垢鬼・・・・・・山西首名都鬼也・・・・・・

 山東漢は倭漢であり「やまとのあや」と読まれており、山西首は「かふち(かわち)のおびと」と読まれています。ここから、「やまと」は「山東」と書かれていたことがわかります。『日本書紀』を調べると、この「やまと」は「山東→東→倭」と変化していったことがわかります(この経緯は『縄文から「やまと」へ』(現『倭と山東・倭・日本』で詳述しています)。
 「東」を「と」と読んでいますが、「東」は万葉仮名ではありません。国語学者の橋本進吉氏や有坂秀世氏の万葉仮名の分類表に「と」と読む「東」はありません。橋本進吉氏は、「とう」は「トウ→トー→ト」と変化していったとしています。「山東」は「やまとう→やまとー→やまと」となったことになります。
 私は、『日本書紀』が「やまと」と読む字を「山東→東→倭」と変化していった、と捉えていることは非常に重要だと思います。「やまと」と読めない「倭」の前身が「山東」で、「山東」は「やまと」と読むからです。これは、「やまと」の語源は「山東」だということを意味しています。
 それでは、「山東」とは何なのでしょうか。820年代に編纂されたとされる『先代旧事本紀』には『日本書紀』に書かれていないものがあります。それは饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)が瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の兄で、瓊瓊杵尊より先に天孫降臨したというものです。『先代旧事本紀』には、饒速日尊は河内国の河上の哮峰(いかるかのみね)に天降り、しばらくして大倭国鳥見の白山に遷った、とあります。饒速日尊が初めて天降ったわけですから、大倭国というのはまだ存在していないのですが、これは歴史書にはよくある書き方です。私は『先代旧事本紀』の記事がすべて正しいなどとは思っていませんが、『日本書紀』でも饒速日尊は神武天皇との関係で非常に重要な存在となっているわけで、この記事は無視できません。
 饒速日尊が最初に天降ったところは河内国です。河内国は『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』には「山西」と書かれていました。その河内から見たら、饒速日尊が遷った鳥見の白山は「山の東」になります。最初に天降ったところは河内国だったので、その山の東の地はやがて「山東(やまとう)」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。「山東」から見た河内は西にあったので「山西」と書かれましたが、そこはすでに「かわち」という名があったので、「山西」と書いても「かわち」と呼ばれたのです。
 「山東(やまと)」は河内の山の東にあった地域を指す名前でした。「やまと」と読む漢字は「山東→東→倭」と変化し、「倭」と書いて「やまと」と呼ばれるようになったのです。「山東」がなぜ「倭」と書かれるようになったのかは、また別の問題としてありますが。