邪馬台国近畿大和説、邪馬台国東遷説に対するの疑問の一つに、なぜ畿内の大和は「邪馬台」と表記されなかったのか、というのが私の中にはあります。正しくは「邪馬臺」ですが。中国正史の『後漢書』から書かれてきた邪馬臺国であるのなら、『古事記』『日本書紀』で堂々と「邪馬台」と書けばよいだけのことです。ところが実際は、そのようには読めない「倭」「日本」と書いて「やまと」と読ませています。万葉仮名としても「邪馬台」は使われていないのです。これこそ「やまと」なのにです。あの有名な卑弥呼の国なのにです。
 私はこのこと一つとっても、邪馬臺国は畿内大和にはなかったし、東遷もなかった、と確信しています。一方、畿内大和の国を「倭」と書くことについては、畿内大和に来た人たち、すなわち、大和先住の長髄彦(ナガスネヒコ)からその国を奪った(長髄彦が君と仰いでいた饒速日尊がその地位を彦火火出見に譲ったとみることもできる)彦火火出見(のちの神武天皇)の集団が九州から来た倭種だったからだと考えています。邪馬台国の東遷ではなく、九州倭種の東征です。
 『記紀』で「倭」「日本」という字を「やまと」と読むのは神武天皇からです。『記紀』の書き方として、大和に入る前から神武天皇の名に「やまと」は使われてはいますが、それを除けば畿内大和に入ってから現れた呼び名です。つまり、「やまと」というのは九州のものではなく、「邪馬台」にはまったく関係のない、九州から彦火火出見が入ってきたときにはすでにあった、畿内大和のある地域に対する呼び名だった、ということになります。
 『記紀』が「やまと」に「邪馬台」という字を使わなかったのは、畿内「やまと」は邪馬臺ではないことを承知していながら、そこまで細工することはさすがにできなかった、ということなのではないか、と私は好意的に解釈しています。もしそのように細工をしていたら、逆に、『記紀』は破綻していたかもしれません。