「女王卑弥呼の国の名は?」と聞かれると、ほとんどの人が「邪馬台国」と答えると思います。しかし、「邪馬壹」(魏志)あるいは「邪馬臺」(後漢書、隋書)とあるものを「邪馬台」とする史料的根拠はまったくありません。かつて安本美典氏が「臺と台は本来別字であったが、早くから通用したようで」と言ったのが唯一根拠らしいものですが、「邪馬臺国」を畿内大和としたいがために「臺」を「台」に替え、「ト」と読めるようにしただけで、「臺」が「台」として通用していたかどうかは確認のしようがありません。「台」は「臺」の略字ではなく別字であり、勝手に書き替えることは史料事実に背くことになります。古代音韻学上、「台」は「ト」と読みますが、「臺」は「ト」とは読みません。卑弥呼の国の名は「やまと」ではないのです。このことは、拙著でも、ホームページでも何度も書いているのですが、「邪馬臺」を「邪馬台」に書き替え、平然と「やまと」と読む人は後を絶ちません。「畿内大和ありき」なのです。「臺」を「台」に置き換えてよい理由はどこにもないのです。「邪馬臺」を「やまと」と読まない人も、ほとんどの人が「邪馬台」と書いているようですが、これでは学問でも何でもありません。『魏志』倭人伝には「臺」ではなく「壹」と書かれていますが、このことについては別の機会に書きたいと思います。
それでは卑弥呼の国は何と呼ばれたのか、ということになりますが、そんなに難しく考えなくてもよいのです。『後漢書』倭伝には、676年に完成したという李賢による注があります。その一つが、本文「其大倭王居邪馬臺国」の次に挿入された「案今名邪摩惟音之訛也」です。これは直前の「邪馬臺国」を説明したものです。要するに、今の名の「邪摩惟」は音がなまったものだと言っているのです。そのなまった元の名というのは、当然、直前の「邪馬臺国」です。しかしこれは何か変です。「邪摩惟」は普通「やまい」あるいは「やまゐ」と発音するのだと思いますが、これでは「邪馬臺国」がなまったものにはなりません。「邪馬臺」は「やまだい」あるいは「やまたい」と発音するものと思います。
李賢注が完成したのは676年で、『隋書』が完成した636年より後です。李賢は当然『隋書』をみていたはずです。『隋書』俀国伝には「邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」とあり、魏の時代に「邪馬臺」と呼ばれた倭国の都は、隋の時代には「邪靡堆」と呼ばれていたことがわかります。ですから、李賢は『後漢書』の注には「邪摩惟」ではなく「邪靡堆」と書いたはずです。『後漢書』注の「惟」は、写本した人が「堆」を書きミスした可能性が大いにあります。それに「堆」のほうが、「臺」の「なまったもの」としては理屈に合います。
この李賢注と『隋書』から、私は「邪馬臺→邪靡堆」が正しいとみています。そうなると、卑弥呼の国は「邪馬臺」と書き、「やまだい」あるいは「やまたい」と発音したのではないか、ということになります。これが現在における、卑弥呼の国の名に関する私の見解です。
それでは卑弥呼の国は何と呼ばれたのか、ということになりますが、そんなに難しく考えなくてもよいのです。『後漢書』倭伝には、676年に完成したという李賢による注があります。その一つが、本文「其大倭王居邪馬臺国」の次に挿入された「案今名邪摩惟音之訛也」です。これは直前の「邪馬臺国」を説明したものです。要するに、今の名の「邪摩惟」は音がなまったものだと言っているのです。そのなまった元の名というのは、当然、直前の「邪馬臺国」です。しかしこれは何か変です。「邪摩惟」は普通「やまい」あるいは「やまゐ」と発音するのだと思いますが、これでは「邪馬臺国」がなまったものにはなりません。「邪馬臺」は「やまだい」あるいは「やまたい」と発音するものと思います。
李賢注が完成したのは676年で、『隋書』が完成した636年より後です。李賢は当然『隋書』をみていたはずです。『隋書』俀国伝には「邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」とあり、魏の時代に「邪馬臺」と呼ばれた倭国の都は、隋の時代には「邪靡堆」と呼ばれていたことがわかります。ですから、李賢は『後漢書』の注には「邪摩惟」ではなく「邪靡堆」と書いたはずです。『後漢書』注の「惟」は、写本した人が「堆」を書きミスした可能性が大いにあります。それに「堆」のほうが、「臺」の「なまったもの」としては理屈に合います。
この李賢注と『隋書』から、私は「邪馬臺→邪靡堆」が正しいとみています。そうなると、卑弥呼の国は「邪馬臺」と書き、「やまだい」あるいは「やまたい」と発音したのではないか、ということになります。これが現在における、卑弥呼の国の名に関する私の見解です。
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