『新唐書』には見逃せない重要な記事がまだ残されている。「日本は古の倭奴国か」掲載のⅡの l  「また、その国の都方数千里にして、南西は海により尽き、東北は大山ありて限りをなし、その外は毛人なりという」である。これは『旧唐書』日本国の「日本国は倭国の別種」掲載の ⑥「またいう、その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なり」とほとんど同じであるが、『旧唐書』にはない重要な文字が一つある。それは「都」である。
 『旧唐書』の日本国記事は日本国全体の地理地形を説明したものになっているが、『新唐書』では、まったく同じその日本が、「日本は古の倭奴国か」掲載のⅠの b「東西は五月行、南北は三月行」である九州倭国を含む日本国全体の「都」となっている。これは、近畿倭国だった日本が九州倭国を併合したことにより、近畿倭国だった地域が九州倭国を含む日本全体の「都」になったことを意味する。『新唐書』は、『旧唐書』の日本国記事にこの「都」という字を一字加えることで、日本という国の発展の過程を見事に言い表した、と言える。
 『旧唐書』『新唐書』を読むと、九州倭国とは別種の倭が、近畿大和にあった小国の日本を併合し、その倭が今に続く日本になったとなっている。九州倭国とは別種の倭は近畿大和にいたのではなく、近畿大和にやってきたものとみることができる。その出発点は九州北部が有力である。こうしてみると、中国正史からだと、邪馬台国近畿大和説は成立しないことがはっきりとわかる。これに対し、邪馬台国東遷説のほうが近いようにみえるが、邪馬台国が東遷したわけではないので、これも成立しない。
 『魏志』『隋書』『旧唐書』『新唐書』の中国正史四書で、ここまでのことがわかるのである。文献史学に関わっている人たちは、少なくとも、『後漢書』から『新唐書』までの中国正史を通して、それらに矛盾なく整合する歴史を構築することが必須条件だと、私は思うのであるが。