『新唐書』は、日本は倭国が改名したものだとする。それは日本側の強い主張によるものだった。これにより、『旧唐書』の「日本国は倭国の別種なり」は消されてしまった。しかし、そこに新たに記載された、『旧唐書』の「日本はもと小国、倭国の地を併せたり」と似て非なる「日本すなわち小国、倭の併すところとなる。故にその号を冒す」(日本は小国だったので、倭国の別種である倭に併合され、その国名を奪われた)によって、日本(倭国の別種である倭=近畿倭国)は近畿大和に初めからあった国ではないことがわかると共に、「倭国の別種である倭」は九州倭国内の一勢力だったのではないかという見方もできるようになる。
これまでに得られた小国の日本についての情報を加えると、『旧唐書』で得た結論Eは次のように書き直すことができる。
F 九州倭国の別種である倭は、近畿大和の小国の日本を併合し、国(近畿倭国)を建てた。初めは小国だった近畿倭国は成長し、この地が日の出る方向にあること、またこの地にあった小国がもともと日本と呼ばれていたことから、その国名を日本とした。その後勢力を拡大した日本は、九州倭国の衰退に乗じ、ついに九州倭国全域を併合するに至った。

恐れずに言えば、『記紀』の神武東征は、倭国乱によりその覇権を失った倭奴国の後継勢力の一部の東征だったのではないか、と私は推理している(1991年「邪馬台国」徹底論争の中で坂田隆氏が同様のことを述べている)。その名を奪い日本国となったのが倭奴国だったとすれば、『新唐書』の「日本は古の倭奴なり」は、単に「倭国」を「日本」にすり替えただけではなく、一つの歴史事実だったことにもなる。
倭奴国とは別系統である邪馬壹(臺)国が倭国を継ぎ、倭奴国の後継勢力の一部が近畿大和に来て日本国になったとすれば、『旧唐書』の「倭国は古の倭奴国なり」も、『新唐書』の「日本は古の倭奴なり」も、共に正しかったことになる。しかし、そうだったとしても、その系統は異なっているのだから、『新唐書』の主張する「倭国=日本」とはならない。
倭奴国は倭国乱により、邪馬壹(臺)国に覇権を譲るまで、その勢力を筑紫平野南部、さらに鹿児島辺りまで拡げていったものと思われる(これが倭国乱の原因になった可能性もある)。近畿大和への移動は、旧倭奴国勢力圏内にあった筑紫平野の国々からもあったと考えられる(甘木市と近畿大和の地名の類似から、甘木市にあった邪馬台国が近畿大和に遷ったとする安本美典説があるが、地名の類似は旧倭奴国勢力圏からの移動によるものではないかと、私は考えている)。
なお、三世紀末頃に邪馬台国が近畿大和へ東遷したとする邪馬台国東遷説は、『隋書』俀国伝によれば、邪靡堆(邪馬壹、邪馬臺)は七世紀中頃まで九州にあったわけだから、『隋書』俀国伝の記録を無視しなければ成立不可能である。また『新唐書』で、倭に併合された小国の日本は、『記紀』の語るところによれば、その真偽は別の問題として残るが、磐余彦(後の神武天皇)に敗れた長髄彦(ナガスネヒコ=登美毘古)が主君としていた饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の国(日下=ひのもと=日本)である。この日本は「やまと」ではなく「ひのもと」と読む。
これまでに得られた小国の日本についての情報を加えると、『旧唐書』で得た結論Eは次のように書き直すことができる。
F 九州倭国の別種である倭は、近畿大和の小国の日本を併合し、国(近畿倭国)を建てた。初めは小国だった近畿倭国は成長し、この地が日の出る方向にあること、またこの地にあった小国がもともと日本と呼ばれていたことから、その国名を日本とした。その後勢力を拡大した日本は、九州倭国の衰退に乗じ、ついに九州倭国全域を併合するに至った。

恐れずに言えば、『記紀』の神武東征は、倭国乱によりその覇権を失った倭奴国の後継勢力の一部の東征だったのではないか、と私は推理している(1991年「邪馬台国」徹底論争の中で坂田隆氏が同様のことを述べている)。その名を奪い日本国となったのが倭奴国だったとすれば、『新唐書』の「日本は古の倭奴なり」は、単に「倭国」を「日本」にすり替えただけではなく、一つの歴史事実だったことにもなる。
倭奴国とは別系統である邪馬壹(臺)国が倭国を継ぎ、倭奴国の後継勢力の一部が近畿大和に来て日本国になったとすれば、『旧唐書』の「倭国は古の倭奴国なり」も、『新唐書』の「日本は古の倭奴なり」も、共に正しかったことになる。しかし、そうだったとしても、その系統は異なっているのだから、『新唐書』の主張する「倭国=日本」とはならない。
倭奴国は倭国乱により、邪馬壹(臺)国に覇権を譲るまで、その勢力を筑紫平野南部、さらに鹿児島辺りまで拡げていったものと思われる(これが倭国乱の原因になった可能性もある)。近畿大和への移動は、旧倭奴国勢力圏内にあった筑紫平野の国々からもあったと考えられる(甘木市と近畿大和の地名の類似から、甘木市にあった邪馬台国が近畿大和に遷ったとする安本美典説があるが、地名の類似は旧倭奴国勢力圏からの移動によるものではないかと、私は考えている)。
なお、三世紀末頃に邪馬台国が近畿大和へ東遷したとする邪馬台国東遷説は、『隋書』俀国伝によれば、邪靡堆(邪馬壹、邪馬臺)は七世紀中頃まで九州にあったわけだから、『隋書』俀国伝の記録を無視しなければ成立不可能である。また『新唐書』で、倭に併合された小国の日本は、『記紀』の語るところによれば、その真偽は別の問題として残るが、磐余彦(後の神武天皇)に敗れた長髄彦(ナガスネヒコ=登美毘古)が主君としていた饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の国(日下=ひのもと=日本)である。この日本は「やまと」ではなく「ひのもと」と読む。
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