Dでは結論として、近畿倭国が日本と改名した後、九州倭国を併合したとしているが、その日本国の成立過程について、もう少し詳しくみてみよう。
『旧唐書』倭国日本伝の倭国記事の中に、次のような記事がある。
二十二年に至り、また新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず。
これは唐と倭国との最後の記事であるが、倭国は貞観二十二年(648)にはまだ倭国として存在していたということを示している。したがって、倭国が日本国に併合されたのは649年以降ということになる。一方日本国記事には、
長安三年その大臣朝臣真人、来りて方物を貢す。
とあるように、長安三年(703)までには、近畿倭国は日本と改名していたことがわかる。また、『三国史記』新羅本紀の文武王十年(670)十二月条によれば、
倭国、更めて日本と号す。
とあり、『三国史記』は『旧唐書』の倭国と日本国の記事を満足している。この『三国史記』を信用するならば、近畿倭国が日本と改名したのは670年の終わり頃だったことになる。
それでは、近畿倭国が日本と改名したとき、倭国と近畿倭国はどのような状況にあったのだろうか。『旧唐書』をみる限り、それまでの日本列島の代表は九州の倭国である。しかし、その倭国は663年白村江で唐・新羅の連合軍に大敗を喫してしまう。近畿倭国の日本への改名はその七年後のことである。この改名は、九州倭国勢力の陰にあった近畿倭国の、自分たちは白村江で敗れた倭国とは別の国である、対外的には「倭」の字は使いたくない、という強い気持ちの表れによるものだったのではないか、と思えてならない。
『旧唐書』は倭国と日本国を別々に記録しているが、そこには倭国と日本国が併存していたことを裏付ける具体的な証拠はない。しかし普通に解釈すれば、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」は、「日本」と「倭国」が別々に存在していたことを示す言い方だと、私は理解する。それに、『旧唐書』が記す「日本」の地形はまだ九州倭国の地を含んでいない。このことも、倭国と日本国が併存していた理由の一つとなるかもしれない。しかしながら、近畿倭国が日本と改名したとき、九州倭国の倭国という名は残っていたものの、その実態はほとんど消えかけていたものと思われる。日本列島の代表権という意味であれば、倭国と日本国の併存はなかったかもしれないが、二つの国が同時に存在していたことがあったかどうかという意味であれば、それはあった、と言える。

また、「日本は旧小国」とは「今日本と呼ばれている国は、昔は小国だった」という意味で、倭国を併合したときも小国だった、という意味ではないこともわかる。
以上、日本国の成立過程を考慮すれば、Dの意味するところは次のように書くことができる。
E 近畿大和の倭国(近畿倭国)はもと小国であったが大きく成長し、その地が日の出る方向にあったこと、また「倭」という字を好まないようになったことから、国名を日本と改めた。その後さらに勢力を拡げた日本国はついに九州倭国全域を併合するに至った。
明日からは『新唐書』の日本について書いていきます。
『旧唐書』倭国日本伝の倭国記事の中に、次のような記事がある。
二十二年に至り、また新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず。
これは唐と倭国との最後の記事であるが、倭国は貞観二十二年(648)にはまだ倭国として存在していたということを示している。したがって、倭国が日本国に併合されたのは649年以降ということになる。一方日本国記事には、
長安三年その大臣朝臣真人、来りて方物を貢す。
とあるように、長安三年(703)までには、近畿倭国は日本と改名していたことがわかる。また、『三国史記』新羅本紀の文武王十年(670)十二月条によれば、
倭国、更めて日本と号す。
とあり、『三国史記』は『旧唐書』の倭国と日本国の記事を満足している。この『三国史記』を信用するならば、近畿倭国が日本と改名したのは670年の終わり頃だったことになる。
それでは、近畿倭国が日本と改名したとき、倭国と近畿倭国はどのような状況にあったのだろうか。『旧唐書』をみる限り、それまでの日本列島の代表は九州の倭国である。しかし、その倭国は663年白村江で唐・新羅の連合軍に大敗を喫してしまう。近畿倭国の日本への改名はその七年後のことである。この改名は、九州倭国勢力の陰にあった近畿倭国の、自分たちは白村江で敗れた倭国とは別の国である、対外的には「倭」の字は使いたくない、という強い気持ちの表れによるものだったのではないか、と思えてならない。
『旧唐書』は倭国と日本国を別々に記録しているが、そこには倭国と日本国が併存していたことを裏付ける具体的な証拠はない。しかし普通に解釈すれば、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」は、「日本」と「倭国」が別々に存在していたことを示す言い方だと、私は理解する。それに、『旧唐書』が記す「日本」の地形はまだ九州倭国の地を含んでいない。このことも、倭国と日本国が併存していた理由の一つとなるかもしれない。しかしながら、近畿倭国が日本と改名したとき、九州倭国の倭国という名は残っていたものの、その実態はほとんど消えかけていたものと思われる。日本列島の代表権という意味であれば、倭国と日本国の併存はなかったかもしれないが、二つの国が同時に存在していたことがあったかどうかという意味であれば、それはあった、と言える。

また、「日本は旧小国」とは「今日本と呼ばれている国は、昔は小国だった」という意味で、倭国を併合したときも小国だった、という意味ではないこともわかる。
以上、日本国の成立過程を考慮すれば、Dの意味するところは次のように書くことができる。
E 近畿大和の倭国(近畿倭国)はもと小国であったが大きく成長し、その地が日の出る方向にあったこと、また「倭」という字を好まないようになったことから、国名を日本と改めた。その後さらに勢力を拡げた日本国はついに九州倭国全域を併合するに至った。
明日からは『新唐書』の日本について書いていきます。
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