この倭奴国は志賀島から出土した金印「漢委奴国王」の「委奴国」のことだと思われるが、そうすると、倭奴国は博多湾周辺の国だったことになり、倭と呼ばれていた地域は、博多湾周辺を南限として、海を挟んで朝鮮半島南部にかけてあったことになる。ところが、『隋書』俀国伝によれば俀国(倭国)の都邪靡堆は有明海北東部沿岸にあったのだから、倭奴国は邪馬壹国以後の倭国の代表とイコールにはならない。したがって、倭国の代表はある時期に倭奴国から邪馬壹国に移ったと考えなければならない。このある時期とは、倭国が乱れ戦乱収拾のため邪馬壹国の卑弥呼が倭国王に共立された時である。
 このことについて、博多湾周辺にあった倭奴国が有明海北東部沿岸に進出し邪馬壹国になったのではないかということも考えられるが、それだと博多湾周辺より北はもともと邪馬壹国の支配地域だったことになり、『魏志』倭人伝が記しているような、伊都国に一大率を置き諸国を検察させる必要性はなかったことになってしまう。置くのであれば、新たに支配することになる南に対してである。倭奴国は邪馬壹国の前身ではないと考えるべきである。
 倭・倭国を代表する国は不変だったのではなく、その中心、範囲、代表国は時代によって異なっていた。初めは博多湾周辺を中心とした倭奴国であり、倭国王となった帥升をはじめとし、70~80年男王の時代が続いたが、倭国乱によって卑弥呼が女王に共立され、倭国の代表国は倭奴国から有明海北東部沿岸の邪馬壹国に移った。邪馬壹国以後はその勢力範囲を九州全体に拡げ、隋代には邪馬壹国は邪靡堆と呼ばれ、九州全体の都となっていた。倭国乱が起こる二世紀末頃までは、博多湾を中心とした倭奴国が倭国の代表であり、倭国乱後は有明海北東部沿岸を中心とした邪馬壹国が倭国の代表となったのである。
 このような歴史を踏まえると、『旧唐書』の「倭国は古の倭奴国なり」は、今の倭国は昔の倭奴国自身である、ということを意味しているのではなく、「倭国は倭の最初の代表国となった倭奴国から始まった」という意味であることがわかる。

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