『旧唐書』倭国日本伝の倭国記事は、これまでの中国史書の倭国に関する記事を、ほとんどといってよいほど踏襲している。主なものを挙げると次のようになる。
① 京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。
② 東西は五月行、南北は三月行。
③ 世々中国と通ず。
④ その王、姓は阿毎氏なり。
⑤ 一大率を置きて諸国を検察し、皆これを畏附す。
⑥ 官を設くる十二等あり。
①の一万四千里は、『魏志』倭人伝以来書き続けられてきた、帯方郡から邪馬壹国までの距離一万ニ千余里をもとに、それに二千里を加えることにより、中国の都からはさらに遠い国ということを表現したものと思われる。「新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る」も「新羅」の部分が各史書でその時代の国名となっているだけで、『魏志』倭人伝以来書き続けられてきたものである。
⑤も倭国王に共立された卑弥呼の施策として、『魏志』倭人伝以来繰り返し書き続けられてきたものであり、倭国が邪馬壹国を中心とした国であることを示している。
②③④⑥は『隋書』俀国伝の記事がもとになっているが、③の「世々中国と通ず」は『隋書』ではもっと詳しく、「魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず」となっていて、倭国がこの時代まで変わることなく中国と通交していたことを証明している。『隋書』は俀国(倭国)が九州島であることをも証明しているから、「倭国は九州にあり、魏より唐の時代までずっと中国と通交していた」ことがわかる。
このように『旧唐書』は、『旧唐書』倭国日本伝の倭国は、これまでの中国史書に書かれてきた倭・倭国であることを認めている。
一方、新しい知識による記事が倭国記事の一行目に書かれている。
⑦ 倭国は古の倭奴国なり。
である。この倭奴国は、『後漢書』倭伝の「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀す」の倭奴国とみてよいと思う。そうすると、倭国は後漢時代はじめの倭奴国から続いてきた国だということになる。ただ倭奴国は「倭国の極南界なり」とあるように倭国全体の名ではなく、その時代に倭人の国の中の一番南にあった一つの国の名だと解される。また「光武、賜うに印綬を以てす」とあるように、倭国を代表する国でもあったと考えられる。
-この続きはまた明日-
① 京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。
② 東西は五月行、南北は三月行。
③ 世々中国と通ず。
④ その王、姓は阿毎氏なり。
⑤ 一大率を置きて諸国を検察し、皆これを畏附す。
⑥ 官を設くる十二等あり。
①の一万四千里は、『魏志』倭人伝以来書き続けられてきた、帯方郡から邪馬壹国までの距離一万ニ千余里をもとに、それに二千里を加えることにより、中国の都からはさらに遠い国ということを表現したものと思われる。「新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る」も「新羅」の部分が各史書でその時代の国名となっているだけで、『魏志』倭人伝以来書き続けられてきたものである。
⑤も倭国王に共立された卑弥呼の施策として、『魏志』倭人伝以来繰り返し書き続けられてきたものであり、倭国が邪馬壹国を中心とした国であることを示している。
②③④⑥は『隋書』俀国伝の記事がもとになっているが、③の「世々中国と通ず」は『隋書』ではもっと詳しく、「魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず」となっていて、倭国がこの時代まで変わることなく中国と通交していたことを証明している。『隋書』は俀国(倭国)が九州島であることをも証明しているから、「倭国は九州にあり、魏より唐の時代までずっと中国と通交していた」ことがわかる。
このように『旧唐書』は、『旧唐書』倭国日本伝の倭国は、これまでの中国史書に書かれてきた倭・倭国であることを認めている。
一方、新しい知識による記事が倭国記事の一行目に書かれている。
⑦ 倭国は古の倭奴国なり。
である。この倭奴国は、『後漢書』倭伝の「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀す」の倭奴国とみてよいと思う。そうすると、倭国は後漢時代はじめの倭奴国から続いてきた国だということになる。ただ倭奴国は「倭国の極南界なり」とあるように倭国全体の名ではなく、その時代に倭人の国の中の一番南にあった一つの国の名だと解される。また「光武、賜うに印綬を以てす」とあるように、倭国を代表する国でもあったと考えられる。
-この続きはまた明日-
コメント