『隋書』は唐の初めに書かれたもので、古い時代のことは、基本的にはそれまでの史書を参考としている。しかし新しい記事も多く、新鮮ささえ感じられる。開皇二十年(600)、大業三年(607)など、『隋書』が書かれた時代に近い時代の事件も多く書かれている。特に、隋の使者裴清が俀国へ来たのは大業四年(608)のことであり、その通った行路は信頼できるものである。『魏志』だけが同時代資料なのではなく、『隋書』も同時代資料と言えるのである。この点を考えると、なぜ『隋書俀国伝』の行路は無視されるのか、理解に苦しむ。
 倭・倭人・倭国・日本国について書かれた中国史書(正史)には、倭人の国・倭国が登場してから日本国が登場するまで、次のような史書がある。

① 後漢書
② 三国志(魏志)
③ 晋書
④ 宋書
⑤ 南斉書
⑥ 梁書
⑦ 南史
⑧ 北史
⑨ 隋書
➉ 旧唐書
⑪ 新唐書

 日本古代史を考える上で、これらの中から資料として採用できるものを選択するとすれば、コピーではなくオリジナルな記事が多く記載されているものになるはずである。そして、その記事が一連の繋がりを持って矛盾なく理解できるものであること、これが、ある一つの国について書かれた歴史書を理解する基本であると私は思う。それにもかかわらず、『魏志倭人伝』一本槍、しかも他の史書とは矛盾だらけ。これではいつまでたっても、日本古代史の黎明をみることなどできはしない。
 ①から⑪までの中国正史の中からオリジナルな記事を持つ史書を選ぶと、『後漢書』『三国志』(魏志)『宋書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』となる。少なくとも、これらの史書の倭国・日本国に関連した記事がお互いに矛盾なく解釈できること、これが日本古代史研究において最低条件でなければならない。その意味で、この『隋書俀国伝』によって導かれた『魏志倭人伝』の行路の解明は非常に重要なのである。
 『隋書俀国伝』はなぜ軽視されてきたのか。今の私からみると、それは、研究者には『隋書俀国伝』の行路は『魏志倭人伝』の行路ほど詳細でないため邪靡堆の位置はわかるはずはない、と頭から決めつけていたからだ、というようにしか考えられない。
 各歴史書間には繋がりがある。これは当然のことだ。その繋がりを研究することによって歴史の流れがわかる。しかしどういうわけか、日本古代史に関してはこれが通用しない。不思議なことだ。
 『隋書俀国伝』は『魏志倭人伝』と『旧唐書』『新唐書』の間に書かれた史書であり、しかも同時代資料である。その価値は高い。『魏志倭人伝』に書かれた邪馬壹国と『隋書俀国伝』に書かれた邪靡堆とが同一国であるならば、余程のことがなければ、魏と隋の間の時代も倭国の都は変わらないはずである。これは非常に重要なことである。『隋書俀国伝』を認めるか、あるいは無視するかで歴史が大きく変わる。真摯な歴史学者であるならば、これを無視するはずはない。私はそう信じる。
 『隋書俀国伝』は私を邪靡堆へ導いた。『魏志倭人伝』の行路も教えてくれた。そして、倭国から日本国への過渡期として、倭国は九州島であり邪靡堆は九州島内にあったことを証明している。『隋書俀国伝』による新しい事実の証明は、『魏志倭人伝』のみに頼った研究の終焉を、今まさに告げようとしている。

 「『隋書俀国伝』の証明」はこれで終了となります。