魏使と隋使は一部異なった行路をとった。このことは『魏志倭人伝』と『隋書俀国伝』の二つの行路により明らかとなった。九州島上陸前の壱岐までは同じ行路をとっているが、その後の上陸地点が異なっている。魏使は、上陸地点から後の隋使が上陸した地点まで、わざわざ陸路を迂回している。結果として、魏使は隋使よりも遠回りをして邪馬壹国(邪靡堆)へ行ったことになる。なぜ魏使は、隋の時代の竹斯国とされる地に上陸せず、末盧国に上陸し、わざわざ遠回りをしたのか。このことについて、今まで説明らしい説明はほとんどされていないが、これは非常に重要なことである。
 坂田隆氏は邪馬壹国が有明海に面したところにあるならば、魏使は唐津市辺りに上陸したら、わざわざ博多湾方面には向かわず、唐津市から南下し直接有明海に向かうだろうと言っている。確かに常識的にはその通りかもしれない。しかしそれは現代の感覚であって、当時のことを現代と同じ感覚で判断してしまうのははなはだ疑問である。それには、その時代の社会情勢、地理的条件なども考慮する必要がある。
 『魏志倭人伝』には次のような文がある。

女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。国中において刺使の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。

 この文から、伊都国は女王国圏の中で非常に重要な立場・地位にある国であることがよくわかる。伊都国は、「郡使の往来常に駐まる所」であり、また「世々王あるも、皆女王国に統属」していた国なのである。女王国から北の国々は、伊都国に置かれた一大率が常に目を光らせ、魏の使者は必ず伊都国に駐在することになっている。女王国すなわち邪馬壹国は、自国より北にある国々を特に警戒し、代々女王国に属していて信頼できる伊都国に、それらの国々を検察させていたのである。
 女王国へ至るには必ず伊都国を通らなければならなかった。そこで魏使は、もと来た道を戻らなくて済むようにコース取りをした。隋使のように竹斯国(『魏志倭人伝』の不弥国に相当)に上陸したのでは、伊都国に行った後、また同じ道を不弥国まで戻り邪馬壹国へ向かわなければならなくなってしまうため、一筆書きで行けるように末盧国に上陸し伊都国に向かうコースを選んだのではないか、と考えられるのである。

 それではなぜ隋使は竹斯国に上陸できたのか。それは、この時代にはすでに使者は伊都国に立ち寄る必要性がなくなっていたからではないかと推定される。言い方を変えれば、邪馬壹国を中心とした倭国が一つの強固なまとまりとなり、邪馬壹国が伊都国に置いた機関に同盟国の監視をさせないで済むようになっていた、ということである。これは、二世紀末の倭国乱直後の倭国は邪馬壹国を中心にまとまりつつあったとはいえ、邪馬壹国から北の国々はまだ邪馬壹国が信頼する同盟国には成り得ていなかったことを示している。裏を返せば、邪馬壹国から北の国々は、倭国乱後に初めて邪馬壹国圏内に入った国々だった、ということになる。
 魏使が末盧国に上陸しなければならなかった理由が、ここでもう一つ考えられるかもしれない。それは〔倭国の新しい都・邪馬壹国に向かう魏の使節団の様子を、末盧国から不弥国までの北岸の国々に見せ、邪馬壹国が倭国の新しい代表国・都になったことを知らしめ、誇示するため〕である。

 魏使が末盧国(唐津市辺り)に上陸したにもかかわらず、南下せずに福岡市方面に向かって行ったのは、このような時代的背景によるもの、と私は考えている。

 -続きはまた明日-

※後半部分に納得いかない部分があったため、文脈・文言の訂正・修正をしました。2023.09.19