帯方郡から狗邪韓国までの行程については、古田武彦氏が従来説とは異なる「韓国内陸行」説を唱えている。この「韓国内陸行」説について考えてみたい。
 古田氏は、魏使は帯方郡を船で発ったあとすぐに上陸し、狗邪韓国まで陸行したとしている。古田氏の研究の基本は、「小・中学生にも理解できるものでなければならない」ということだと、私は理解しているが、この部分を小・中学生にも理解できるように解釈していくと、韓国内陸行は成立不可能になってしまうのである。
 魏使が通った、帯方郡から狗邪韓国までの行路は次のようになっている。

A 従郡至倭
B 循海岸水行
C 歴韓国乍南乍東
D 到其北岸狗邪韓国七千余里

 Aは文字通り、”郡から倭に至るには”であり、これから示す行程は、帯方郡から倭までですよ、ということを表している。この倭は倭国の都を意味している。
 問題はBとCである。Bの「水行」はどの部分にかかっているか、Cの「歴韓国」の「歴」は水行・陸行と同じような働きを持った動詞とみることができるのかどうか、である。
 ここで『魏志倭人伝』の行路記事をみてみると、主語や先行動詞が省略されていても、古田氏の言う主線行程・傍線行程においても、「『魏志倭人伝』の行路 里数について」の項の②以下の行程をみればわかるように、そのあとは必ずどこかに”至”っている。しかも、古田氏の「先行動詞+至」は実際にそこに至ることだとする主張からすれば、Bの「循海岸水行」は「水行」という先行動詞を伴っているから、「海岸にしたがい水行」したあとは必ずどこかに至っていなければならないはずである。それでは、この「水行」のあと魏使はどこに至ったのか。次の「至」を探すと、それは「其北岸狗邪韓国」の直前の「到」である。となれば、至ったところは「其北岸狗邪韓国」しかない。
 さらに『魏志倭人伝』の行程では、必ずどこかに至ってから、次の地点に出発する書き方になっている。仮に、Cの「歴韓国乍南乍東」の「歴」を、「水行」「陸行」と同じような働きを持つ動詞とみて、Cが韓国内陸行を意味し「到」につながるのであれば、その前のBの「水行」に対して、水行後の到達地点が当然記載されていなければならない。これが理屈というものである。つまり、「水行到・・・歴到・・・」となるはずである。しかし実際は「水行歴・・・到・・・」となっており、「歴」の前に「到・・・」が記載されていない。したがって、「歴」の時点ではまだ「水行」が続いているとみなければならない。つまり「歴」はDの「到」に先行する動詞として使われていないということになる。Bの水行後の到達地点は「到」の直後に書かれている地点、つまり狗邪韓国なのである。
 古田氏の主張する実行程(先行動詞+至)に忠実に従えば、古田氏の意図とは逆に、韓国内陸行はあり得ず、帯方郡から狗邪韓国までは水行だったことを証明することになってしまうのである。古田氏はこの自己矛盾に気付かなかったのだろうか。
 古田氏の主張する主線行程・傍線行程の是非はともかく、「行」ったらどこかに「至」るのは当然のことで、撰者陳寿はその当然の書き方をしたのである。しかし古田氏は、それに対し当然の理解の仕方をしなかった。自ら主張している【「行」ったら「至」る】という法則に反して。この部分については、古田氏はなぜか、氏のモットーとする、小・中学生にも理解できる素直な読み方ができなかったのである。AからDままでの文節を、小・中学生にも理解できるように素直に読めば、韓国内陸行はどこにも見いだせなかったはずである。
 Cの「歴韓国乍南乍東」は、Bの「循海岸水行」の、水行した海岸について、どこをどのように水行したのかを説明するための挿入文である。「乍南乍東」の「乍」は「しばらく」と読み、「しばらく南へ行ったら、しばらく東へ行く」という意味になる。「南へ行ったと思ったら東へ行き、ジグザグに進むこと」という解釈は、そこが陸であっても海であっても、あまりにも非現実的過ぎるように思えるが、どうだろうか。

 -続きはまた明日-