竹斯国は女王国ではないことは、『隋書俀国伝』の行路記事がはっきりと示している。
 隋の使者裴清は、竹斯国へ上陸したあと秦王国へ行き、さらに十余国を経て海岸に達した。そこへ俀国の使いが来たが、もうすでに俀国の都(邪靡堆)に着いていた。こう言っているのであるから、上陸した竹斯国が、上陸後秦王国そして十余国を経て達した海岸の近くにあった邪靡堆のことである、などということは決してあり得ないのだ。倭国の都は邪馬壹国であり女王国である。俀国の都は魏の時代の邪馬臺(邪馬壹)であり、隋の時代の邪靡堆であることは、『隋書俀国伝』が初めから言っている。すでにこの時点で、竹斯国は女王国ではなかったことは、説明の余地がないほどわかりきった史実なのだ。
 それなのに、古田氏はなぜ「自・・・以・・・」などという "文形" を持ち出したのだろうか。思うに、『隋書俀国伝』の行路記事は、邪靡堆が博多湾よりさらに先に、それもはるか先にいってしまうため、博多湾に邪馬壹国があったとする古田氏にとって都合が悪かったからではないか。しかしだからといって、古田氏がそのようなことをするだろうか。私のほうが気が動転したのを覚えている。
 古田氏は『「邪馬台国」はなかった』で、「学問の論証はその基本において単純であると思う。(中略)たとえば小中学生に対してさえも、説得力をもち、ハッキリと理解されるものでなければならない」と述べている。私はこの言葉に感銘を受け、これからは絶対にそうあらねばならない、それに反する論証はどこかに必ず嘘偽りがある、と思うようになった。古田史学に傾倒した大きな理由の一つだった。
 しかし、『隋書俀国伝』における古田氏のこの論証は、はっきり言って、小中学生に対しても説得力を持たないものだ。むずかしいのではなく理屈に合わないからだ。もし古田氏の説く『隋書俀国伝』のこの部分を小中学生に見せたら、彼らは、上陸した竹斯国とそこから十数か国通って到達した邪靡堆(邪馬壹国・女王国)とがなぜ同じ国にならなければならないのか、悩み続けることになるだろう。どんな理屈をつけようと、古田氏のこの論証は論証にはなっていない。
 このような論証ならば、かえってしないほうがよかったのではないか。行路の解釈上の問題のみから言えば、古田氏のこの論理より、邪靡堆を近畿大和にもっていこうとする研究者の、深く考えない論理のほうがまだましと言える。誰もが読んでわかる事実を、敢えて覆そうとする古田氏の論理には、痛々しささえ感じてしまう。
 『隋書俀国伝』の邪靡堆への行路記事「百済を度り、行きて竹島に至り、南に[身冉]羅国を望み、都斯麻国を経、遙かに大海の中にあり。また東して一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。(中略)また十余国を経て海岸に達す」は、邪靡堆すなわち邪馬壹国の所在地を限定する非常に重要な記事であるにもかかわらず、多くの研究者はこれを無視してきた。『魏志倭人伝』の行路は重視し、『隋書俀国伝』の行路は無視している。『魏志倭人伝』は同時代資料とはいえ、偏重し過ぎるのは、研究するものの姿勢として正しいとはとても言えない。『魏志倭人伝』の記事にさえ何とかつじつまが合っていればそれでよいという姿勢が透けて見える。そもそも日本古代史が混迷しているのは、こういった一貫性のない、研究者のご都合主義に起因するところが大きいように思う。『魏志倭人伝』のみにとらわれず、しかも『隋書俀国伝』を無視しなければ、邪靡堆すなわち邪馬臺(壹)国は九州島内にあり、さらに有明海北東部の海岸近くにあったことがわかるのである。

 -続きはまた明日-