私は『隋書俀国伝』から、倭国の都が有明海の北東部沿岸にあったことを導き出した。その『隋書俀国伝』を中心資料としてとりあげる人が少ない中で、古田武彦氏は『隋書俀国伝』の記事を、私の結論とは異なった「竹斯国=女王国」であることの証拠の一つとして挙げている。
 古田氏は『古代は輝いていたⅢ』で次のように述べている。

  自竹斯国以東、皆附庸於俀。
  (中略)
  自女王国以北、特置一大率、諸国畏憚之。
  (中略)
 以上の二文を対照してみると、倭人伝は「女王国起点」、俀国伝は「竹斯国起点」の文形となっている。
 そして「両伝の首都は一致する」というのが、前に述べた通り、俀国伝冒頭の出発点をなす主張だった。この点「女王国」を筑紫、ことに筑前を中心に考えてきたわたしの立場にとって、まさにズバリの表現であった。
 倭人伝の場合、検察の原点が倭王(卑弥呼)であったのと同様、俀国伝の場合も、附庸の原点は俀王(多利思北孤)だったのである。

 古田氏は、ここで重要な誤りを犯している。確かに「自・・・以・・・」の文形は同じかもしれないが、だからといって「自」と「以」の間に書かれている国も同じとは限らないからだ。さらに古田氏は「自・・・以・・・」の文形だけを問題にしているが、このあとに続く文との関係は無視している。しかし、一部分の文形よりも全体との関係のほうが大事なのではないかと私には思える。
 『隋書俀国伝』の場合、「自竹斯国以東」は主語であり、「竹斯国より東の国は皆俀国に属している」という意味になる。
 『魏志倭人伝』の場合は、主語は女王で省略されており、「女王は、女王国より北には特に一大率を置き検察させている。諸国はこれを畏れている」という意味になる。
 『隋書俀国伝』の「自竹斯国以東」は主語としての文節になるのに対し、『魏志倭人伝』の「自女王国以北」は主語としての文節にはなっていない。「自竹斯国以東」と「自女王国以北」はその使われ方が異なっているのである。しかし、実はこのことよりも、「自竹斯国以東」に続く文が非常に重要なのである。それにもかかわらず、古田氏はこの一部分だけの文形を取り上げ、重要な部分には触れずに逃げてしまったのである。
 俀国の都は竹斯国ではなく「邪靡堆」である。『魏志』でいう「邪馬臺(壹)」だと、『隋書俀国伝』にはっきりと書いてある。そしてそこは、竹斯国から秦王国、十余国を経て達した海岸の近くにあった。たとえこの海岸がどこにあったのかわからないとしても、邪靡堆というところは、竹斯国ではないことは小学生でもわかる。こんな初歩的な明白な史実を古田氏はどこへ置いてきてしまったのか。残念としか言いようがない。
 『魏志倭人伝』のみからのアプローチの弊害が如実に表れてしまった極端な例、と言えるかもしれない。

 -続きはまた明日-