ここに一つの疑問が起きる。それは『隋書』の撰者魏徴はなぜ、俀国の位置を示す記事の方位はそれまでの正史と同じで、俀国内についての方位は『魏志倭人伝』の方位と九十度ずれた方位を使用したのか、ということである。
 倭の位置は中国正史では次のようになっている。

 『後漢書』:韓の東南
 『三国志』:帯方の東南
 『晋書』 :帯方の東南
 『宋書』 :高麗の東南
 『南斉書』:帯方の東南
 『隋書』 :百済・新羅の東南
 『旧唐書』:新羅の東南
 『新唐書』:新羅の東南

 このように、倭・倭国は朝鮮半島の東南の方向にあると、中国では認識されていたことがわかる。
『新唐書』では、近畿大和の日本国が新羅の東南とされており、九州倭国の位置と同じ表現になっている。これは「日本は倭国が改名したもの」という、日本は「古の倭奴国」、すなわち倭国であるとする日本側の意図により、日本が倭国と言っていた時代から朝鮮半島の東南にあったとしたからである。しかし中国正史が書き続けた「朝鮮半島の東南」にあった倭国は、『隋書俀国伝』で明らかになったように九州島にあったのであり、日本は近畿大和にあったのにもかかわらず、それまでと同じように「新羅(朝鮮半島)の東南」とした『新唐書』は、それまでの歴史を改変してしまったことを露呈している。
 ここで、竹斯国から文字通り東に秦王国があり、邪靡堆が近畿大和にあったとすると、俀国すなわち倭国は百済。新羅の東南にあったとは言えなくなる。地図上で見ると、近畿大和も帯方郡からは東南の方向にあると言えなくもないが、中国正史が示す中国側の認識から言う東南ではない。東南の方向はあくまでも九州方面を指しているからだ。つまり、この東南という方位は倭国を指すときの一つの決まり文句として使用されている、ということなのだ。
 ところが『隋書俀国伝』では、俀国内に入るとその方位に変化が起きた。俀国の位置は「百済・新羅の東南」というように、『魏志倭人伝』と同じ「東南」という表現をしながら、俀国内の方位は『魏志倭人伝』の方位に対し九十度ずれるのである。このずれがどのようにして起きたのかはわからないが、事実として起きたのである。対馬から壱岐へ行くのに、『魏志倭人伝』では南なのに『隋書俀国伝』では東なのである。そして新しい方位記事はすべて、このずれにぴたりと合う。
 このずれが始まるのは「南に[身冉]羅国を望み都斯麻国を経」からであり、俀国領内と思われるところからである。俀国についての新しい知識が、新しい感覚によって書かれた。このときの方位はこれが正しかったと考えるしかない。
 新しい情報がどれだけあるかということは、その史書の価値を左右したかもしれない。俀国の都邪靡堆への行路記事は『隋書俀国伝』の目玉であり、その中での新しい方位知識はまたとない材料であり、これは絶対妥協できないものだったに違いない。
 「『隋書俀国伝』は俀国の位置を示す記事の方位は他の中国正史と同じ方位を使用しているのに、俀国内における方位ではなぜ『魏志倭人伝』の方位と九十度ずれた方位を使用したのか」という疑問について、私は次のように考える。

 「東南」は倭国の位置を示すときの一つの決まり文句としての方位表現だった。それは倭国の決まった位置を示すものであり、変えてはならないもの、あるいは変える必要のないものだった。そのため、俀国の位置を示す方位は新しい方位に訂正せずそのまま使用し、俀国内についての方位は、情報として貴重だったので、新しい知識として記載した。

 ほとんどの学者諸氏には研究されず、魏徴は撰者として不本意ではあろうが、『隋書俀国伝』に従来の方位基準による方位のほかに、『魏志倭人伝』と九十度ずれた方位が記載されていたことは、日本古代史研究にとって、また私にとっても、非常に幸運だったと言える。

 -続きはまた明日-