隋使が通ったと思われる行路

ichiwa-4


 「東」は実は「南」ではないか、という疑問から発して、私は邪靡堆のありかを探ってきた。そしてついにおおよその見当をつけるまでに至った。この「東」と書いてあるものを「南」とする見方に対し、これは原文改定ではないかという人がいるかもしれない。しかし、まったく同じ方角に対して、『隋書俀国伝』に書かれた方位と『魏志倭人伝』に書かれた方位との間に九十度のずれがあったという事実は、決して動かすことはできないのである。
 一地点から一地点への同じ行路が、ある書では南の方角で、ある書では東の方角だったとしたら「南=東」としても、これは決して原文改定だとは思わない。『魏志倭人伝』の行路で、「南、投馬国に至る水行二十日」「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」の「南」を「東」に原文改定し邪馬台国を近畿大和にあてている人たちがいるが、その人たちが『隋書俀国伝』では対馬から壱岐への方角である「東」(『魏志倭人伝』では「南」)を「東」としたまま『魏志倭人伝』の「南」へ進み、竹斯国へ上陸したとたん、そこからの「東」は「南」ではなく「東」へ行ってしまうのは、恐ろしく滑稽にみえる。
 邪馬台国は近畿大和にあった、あるいは隋の時代には邪馬台国は近畿大和に東遷していたとする研究者にとって、『隋書俀国伝』の「東」は、邪馬台国は近畿大和にあったとする絶好の材料にみえたようである。逆に「東」が実は「南」のことだったとなると、邪馬台国は九州島内にあったことになり、近畿説や東遷説は根本から崩れることになる。寂しいことであるが、もしかしたら、これらの人たちはそれを承知の上で、敢えてこの事実からは目をそむけているのではないか、と私には思えてしまうのである。

 -続きはまた明日-