それでは、小徳阿輩臺や大礼哥多毘を遣わした俀王はどこにいたのだろうか。それはもうここまでくれば簡単である。
一 大礼哥多毘を遣わして「郊労」せしむとあるから、「郊労」の意味(郊外に行き出迎え、外国の使者をねぎらう)からすれば、達した海岸は都の城内から少し外れたところにあった。
二 大礼哥多毘が出迎えた後、どこをどう通ったという記事がないまま、もう都に着いていた、というのだから、俀王の居城は海岸からそう遠くないところにあった。
この二つは同じことを言っていて、俀国の都邪靡堆の居城があるところは海岸からそう遠くないところにあったことを示している。
以上のことから、俀王の居城は有明海北東部海岸の近くにあったことがわかる。それでは、有明海北東部海岸の近く、とはどのあたりなのか。古代の有明海の海岸線はもう少し、というよりかなり(20Km以上)内陸部に入り込んでいたと考えられているので、それは、筑後川の東側では現在の久留米市から筑後市、八女市あたりが考えられ、西側では吉野ケ里遺跡あたりも、その候補の一つに挙げることができそうである。

有明海海岸の上部の黒い点線は海岸線の推定後退線
(※以後の調べでは、海岸線の後退戦は筑後川上流に向けてより大きく入り込んでいるようです)
それでは邪靡堆の範囲はどうだろうか。俀王の居城は有明海北東部海岸の近くにあった。その郊外にあたる海岸も邪靡堆の一部だったと考えられる。十余国までは邪靡堆ではないから、邪靡堆は筑紫平野の南西部の有明海北東部海岸に面した一帯を北限として、その南の菊池平野にかけてあったのではないかと推定される。
「東」「海岸」「十日」、この三つのキーワードを解くことにより、私は邪靡堆へ辿り着くことができた。『隋書俀国伝』は『魏志倭人伝』の行路とは別の「もう一つの行路」をはっきりと記していたのである。しかも、俀王の居城は有明海北東部海岸の近くにあったという具体的な内容を伴いながら。
※原本では、邪靡堆の候補地には吉野ケ里遺跡は入っていませんでしたが、古代有明海の北東部海岸線の状況を知るに至り、今回その候補に入れることにしました。
-続きはまた明日-
一 大礼哥多毘を遣わして「郊労」せしむとあるから、「郊労」の意味(郊外に行き出迎え、外国の使者をねぎらう)からすれば、達した海岸は都の城内から少し外れたところにあった。
二 大礼哥多毘が出迎えた後、どこをどう通ったという記事がないまま、もう都に着いていた、というのだから、俀王の居城は海岸からそう遠くないところにあった。
この二つは同じことを言っていて、俀国の都邪靡堆の居城があるところは海岸からそう遠くないところにあったことを示している。
以上のことから、俀王の居城は有明海北東部海岸の近くにあったことがわかる。それでは、有明海北東部海岸の近く、とはどのあたりなのか。古代の有明海の海岸線はもう少し、というよりかなり(20Km以上)内陸部に入り込んでいたと考えられているので、それは、筑後川の東側では現在の久留米市から筑後市、八女市あたりが考えられ、西側では吉野ケ里遺跡あたりも、その候補の一つに挙げることができそうである。

有明海海岸の上部の黒い点線は海岸線の推定後退線
(※以後の調べでは、海岸線の後退戦は筑後川上流に向けてより大きく入り込んでいるようです)
それでは邪靡堆の範囲はどうだろうか。俀王の居城は有明海北東部海岸の近くにあった。その郊外にあたる海岸も邪靡堆の一部だったと考えられる。十余国までは邪靡堆ではないから、邪靡堆は筑紫平野の南西部の有明海北東部海岸に面した一帯を北限として、その南の菊池平野にかけてあったのではないかと推定される。
「東」「海岸」「十日」、この三つのキーワードを解くことにより、私は邪靡堆へ辿り着くことができた。『隋書俀国伝』は『魏志倭人伝』の行路とは別の「もう一つの行路」をはっきりと記していたのである。しかも、俀王の居城は有明海北東部海岸の近くにあったという具体的な内容を伴いながら。
※原本では、邪靡堆の候補地には吉野ケ里遺跡は入っていませんでしたが、古代有明海の北東部海岸線の状況を知るに至り、今回その候補に入れることにしました。
-続きはまた明日-
コメント
コメント一覧 (2)
早速ですが、本文に入らせていただきます。
まず、「対馬から一大國の方角は東です」の「一大國」がどこのことを指しているのか私にはよくわかりません。
「一大国」は『魏志』倭人伝で壱岐のことで、対海国(対馬)から南の方角になります。この部分は『隋書』俀国伝では、都斯麻国(対馬)を経て東に行くと一支国(壱岐)に至り、そして竹斯国に至る、とあります。一大国も一支国も壱岐のことで、『魏志』倭人伝では対馬の「南」であり、『隋書』俀国伝では「東」になっています。俀国の都・邪靡堆への行路では、「東」は『魏志』倭人伝の「南」を意味していることになります。
また、このことに関連しますが、俀国は「其国境 東西五月行 南北三月行 各至於海」という島国で、そこには阿蘇山がある、とあります。この条件を満たすところは九州以外にはありません。ただこの地形では、東西に長く南北に短くなっていて、実際とは東西南北が逆です。しかし、「東」が「南」のことだとすれば、『隋書』俀国伝の記述は実際と合致します。九州全体が俀国であり、竹斯国は九州全体を意味する筑紫ではないことがわかります。『隋書』俀国伝の「東」は近畿大和の方向を指していないということです。
簡略して説明しましたが、詳細はカテゴリー「『隋書俀国伝』の証明」の『旧唐書』あたりまでを読んでいただければ、わかると思います。
あと、『日本書紀』では裴世清は難波津に到着している、という件についてですが、私のホームページ「倭国と日本国の関係史」の 個々の論考 古代史ノート "日本書紀 推古天皇16年(608)記事を検証する" に詳しく書いてありますのでご一読ください。
Isshun
が
しました
最終到着地点は大阪です
そして、対馬からの一大國の方角は東です
もし壱岐島なら南か東南と書くでしょう
そして対馬、一大國、チクシ国と難波方面に移動しているはずです。
対馬から大阪の間に各国があったはずです。
一番重要な事は、チクシ國から東は倭国と書いています。
ですので九州は倭国ではありません。
九州は邪馬台国のライバル国、狗奴国だったと考えれば辻褄が合うのではないでしょうか?
天皇と九州王朝は何度も戦ってますし、どう考えても倭国、大和朝廷の敵です
Isshun
が
しました