さて、このあと隋の使者裴清はどうしたのだろうか。行路記事はなおも続いている。

 俀王、小徳阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。後十日、また大礼哥多毘を遣わし、二百余騎を従え郊労せしむ。既に彼の都に至る。

 海岸に達した裴清に対し、俀王はまず小徳阿輩臺を迎えに差し向けた。問題は第三のキーワード「十日」である。私はこの部分を、小徳阿輩臺が裴清を護衛しながら十日間水行あるいは陸行したのではないか、と考えたこともあった。しかし、もしそのような行動をとったのであれば、何かしらの記録があってしかるべきなのではないか、と思うようになり、そこに何も書かれていないということは、何も書かれていないという事実をそのまま理解しなさい、ということなのではないか、そして【海岸についた裴清を小徳阿輩臺に迎えさせ、十日ほど経って、さらに大礼哥多毘を遣り、出迎えねぎらわせた】と読むほうがこの文面に沿った読み方のように思えてきたのである。
 「十日」は時間の経過を意味するが、場所の移動は決して意味していないのではないか。裴清は十日間、大礼哥多毘が来るまでどこにも行かずこの海岸にいたのではないか。驚くことに、実は、このことを証明するものが、俀王が裴清に対面したとき、俀王自身が語った言葉の中にあったのである。

 我れは夷人、海隅に僻在して、礼義を聞かず。これを以て境内に稽留し、即ち相見えず。

 俀王は夷人であり礼義がわからないから、自分は城内にとどまって、すぐに使者と会うことはしなかった、と俀王自ら言っているのだ。これは、裴清が海岸に到着してもすぐには城内に迎え入れることはしないで、まず小徳阿輩臺を送り(接待などした可能性)、さらに十日ほど経ってから大礼哥多毘を送り裴清をねぎらい城内に迎え入れたことを意味している。
 「十日」が、海岸から邪靡堆に向け進んだ時間だとすると、邪靡堆の候補地を特定するのは難しくなる。しかし、「十日」にはセットとなってその意味をなすものがあった。それが俀王自身によってなされた告白であり、これにより、「十日」とは隋使の邪靡堆への移動期間ではないことが知られるのである。


 -続きはまた明日-