※この項の説明の中の方位は『魏志倭人伝』の方位で表記します。例:「東」→「南」

 ここから行く次の十余国はどのあたりになるのか。十余国へは具体的な方角は書かれていない。ここでもう一度「竹斯国より以東は、皆俀に附庸す」を見てみよう。竹斯国は俀国本島の北の端であり、そこから南はみな俀国に属しているというのであるから、秦王国から次に進んで行く十余国も俀国内で、つまり九州島内で太宰府市辺りより南にあると考えることができる。ここでいう南とは、南に向かう直線上の方角のことではなく、東西に引いた直線で南北に分けたときの南の面という意味である。そうでなければ、俀国は竹斯国から南への直線上にある国だけとなり、九州島全体が俀国であるということに矛盾してしまう。したがって十余国は、太宰府市辺りに「東西」(実方向で「北東-南西」)に引いた直線より南(実方向で東南)側にあったとみることができる。

『隋書俀国伝』の行路 都斯麻国→一支国→竹斯国→秦王国→十余国
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 南(実方向の東南)側であればどのルートを通ってもよいと言われても、人が通常歩く道は山道よりも平坦で歩きやすい道だろうと思う。特にこの場合隋からの使者なのだから。太宰府市辺りからの南(実方向の東南)の方角には平坦な土地が続き、さらに行くと平野が開ける。筑紫平野である。中津市など周防灘方面も秦王国からの南の範囲に入るかもしれないが、そちらに向かうには、山岳地帯は大きな障害になる。内陸部に入っておきながら、平野に向かわず山越えするというのは考えられないし、そもそも十余国を入れるスペースがない。
 竹斯国から南に行った秦王国のその先には筑紫平野が控えていた。そうであれば、秦王国の次の十余国はこの筑紫平野にあったと考えるのは自然なことだろう。

 -ここの続きはまた明日-