『隋書俀国伝』の方位がどのような基準で使われているか、それを正確にとらえることにより、邪靡堆への道が何となくではあるが見えてきたように思える。
 ここで、これまでの知識をもとにして、大業四年(608)、隋の使者裴清が俀国(倭国)に来た時の行路について検討してみたいと思う。その行路は次のようになっている。
 
 百済を度り、行きて竹島に至り、南に[身冉]羅国を望み、都斯麻国を経、遙かに大海の中にあり。また東して、一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。(中略)また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆俀に附庸す。

経路のみを記すと

 百済→竹島→都斯麻国→一支国→竹斯国→ 秦王国→ 十余国→ 海岸

となる。
 このうち一支国までは『魏志倭人伝』の行路と同じである。裴清が上陸した地点も『魏志倭人伝』と同じだとすれば、竹斯国は唐津市周辺ということになるが、竹斯は筑紫と同意語と考えられ、唐津市周辺とみるには難がある。上陸にふさわしい港であることと筑紫という名からすると、竹斯国は博多湾岸の国とみるのが最も適切であるように思う。

『隋書俀国伝』の行路 都斯麻国→一支国→竹斯国→秦王国
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 次に、この竹斯国から東の秦王国に行くのであるが、今までみてきたように、東は南(実際の方角は東南)を意味しているので、そこは博多湾から内陸部に入ったところになる。その後の歴史的な意味や役割などを考慮に入れると、秦王国とされる国は太宰府市辺りにあったのではないかと推定される。

 -続きはまた明日-