このように、②⑤⑥の方位がすべて『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれていることがわかった。この結果はBグループのその他の記事の方位も『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれた表記になっていることを確信させる。
次にBグループの残りの記事についてもみてみよう。
③について
これは俀国の都・邪靡堆についての説明なのか、あるいは俀国全体の説明なのか曖昧であるが、「その」の前が②の文であり、②は俀国の説明であるから、俀国全体についてのものと考えられる。『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれた表記と、『魏志倭人伝』の方位は実際の方位に対し三十度から四十五度程度反時計回りにずれていることを考慮すると、「俀国は東南側が高く北西側が低い地勢で、『魏志』では邪馬臺と呼ばれた邪靡堆を都としている」となる。
⑦について
③で述べたように二種類のずれを考慮すると、秦王国は実際の方向で竹斯国の東南にあったことになる。竹斯国は博多湾岸の国と思われるので、秦王国はおおよそ太宰府市当たりだったのではないかと考えられる。
この部分について、東は東(地図上では北東)とみて、秦王国は北九州市や下関市方面の国とみている人がほとんどであるが、これは、ほとんどの研究者が『隋書俀国伝』の新知識による方位を無視しているということを意味している。しかし今までみてきたことによれば、秦王国は福岡市辺りからさらに『魏志倭人伝』の方位でいう「南(実際の方角で東南)」に向かって九州内陸部に入ったところになければならないはずである。
⑧について
「竹斯国より以東」は、当然「竹斯国を含んで、その東は」の意味であるから、方位を『魏志倭人伝』の方位に直して言えば、「博多湾岸の竹斯国より南(実際は東南)の国は、皆俀国の構成国である」となる。つまり②で示したように、俀国は九州島であるから、九州の北(実際は北西)の端から南(実際は東南)の端まで、九州島全体が俀国であることを表現していることになる。

この「以東」の「東」をそのまま東とすると、竹斯国より西にある『魏志倭人伝』でいう伊都国や末盧国などの地域は俀国に含まれないことになり、反対に逆側の本州全体にその範囲が及ぶことになり、俀国は「東西南北」海で囲まれ、海が国境となっているという『隋書俀国伝』の記事に矛盾してしまう。しかしこの東が東ではなく南であったとすれば、その矛盾も消える。この記事は、『隋書俀国伝』の新しい知識による方位が『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれていることを、言うなれば帰納法的に証明しているのである。
⑥の記事のたった一つの「東」という文字が、『隋書俀国伝』の新しい知識による方位が『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれていることを教えてくれた。同じ行路でありながら方位表記が異なっていたという、たった一つの文字の異変を真摯にとらえることにより、思いがけない方向へと導かれることになった。「東」は大きな、隠されたキーワードだったのである。
「東」が『魏志倭人伝』では「南」であるにもかかわらず、なぜそうなったのかも検討せず、しかも竹斯国を九州島として、そこから東へ、つまり近畿大和へと進む行路を、何の疑問も抱かず、また検討もしないで採用することは、研究者の怠惰としか言いようがない。
主観を入れずに『隋書俀国伝』に書かれていることを素直に解釈しただけで、以上のような解読結果となることを、ここではっきりと言っておきたい。
-この続きはまた明日-
次にBグループの残りの記事についてもみてみよう。
③について
これは俀国の都・邪靡堆についての説明なのか、あるいは俀国全体の説明なのか曖昧であるが、「その」の前が②の文であり、②は俀国の説明であるから、俀国全体についてのものと考えられる。『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれた表記と、『魏志倭人伝』の方位は実際の方位に対し三十度から四十五度程度反時計回りにずれていることを考慮すると、「俀国は東南側が高く北西側が低い地勢で、『魏志』では邪馬臺と呼ばれた邪靡堆を都としている」となる。
⑦について
③で述べたように二種類のずれを考慮すると、秦王国は実際の方向で竹斯国の東南にあったことになる。竹斯国は博多湾岸の国と思われるので、秦王国はおおよそ太宰府市当たりだったのではないかと考えられる。
この部分について、東は東(地図上では北東)とみて、秦王国は北九州市や下関市方面の国とみている人がほとんどであるが、これは、ほとんどの研究者が『隋書俀国伝』の新知識による方位を無視しているということを意味している。しかし今までみてきたことによれば、秦王国は福岡市辺りからさらに『魏志倭人伝』の方位でいう「南(実際の方角で東南)」に向かって九州内陸部に入ったところになければならないはずである。
⑧について
「竹斯国より以東」は、当然「竹斯国を含んで、その東は」の意味であるから、方位を『魏志倭人伝』の方位に直して言えば、「博多湾岸の竹斯国より南(実際は東南)の国は、皆俀国の構成国である」となる。つまり②で示したように、俀国は九州島であるから、九州の北(実際は北西)の端から南(実際は東南)の端まで、九州島全体が俀国であることを表現していることになる。

この「以東」の「東」をそのまま東とすると、竹斯国より西にある『魏志倭人伝』でいう伊都国や末盧国などの地域は俀国に含まれないことになり、反対に逆側の本州全体にその範囲が及ぶことになり、俀国は「東西南北」海で囲まれ、海が国境となっているという『隋書俀国伝』の記事に矛盾してしまう。しかしこの東が東ではなく南であったとすれば、その矛盾も消える。この記事は、『隋書俀国伝』の新しい知識による方位が『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれていることを、言うなれば帰納法的に証明しているのである。
⑥の記事のたった一つの「東」という文字が、『隋書俀国伝』の新しい知識による方位が『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれていることを教えてくれた。同じ行路でありながら方位表記が異なっていたという、たった一つの文字の異変を真摯にとらえることにより、思いがけない方向へと導かれることになった。「東」は大きな、隠されたキーワードだったのである。
「東」が『魏志倭人伝』では「南」であるにもかかわらず、なぜそうなったのかも検討せず、しかも竹斯国を九州島として、そこから東へ、つまり近畿大和へと進む行路を、何の疑問も抱かず、また検討もしないで採用することは、研究者の怠惰としか言いようがない。
主観を入れずに『隋書俀国伝』に書かれていることを素直に解釈しただけで、以上のような解読結果となることを、ここではっきりと言っておきたい。
-この続きはまた明日-
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