それではCグループ⑥は『魏志倭人伝』とどのように異なっているのだろうか。この部分は『魏志倭人伝』では次のように書かれている。
また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。
『魏志倭人伝』は、一大国は対海国から南の方角にあると言っているわけであるが、⑥は、一支国は都斯麻国から東の方角にあると言っているのだ。対海国は都斯麻国であり、一大国は一支国であり、現在の対馬と壱岐の関係になる。つまり対馬から壱岐へ行くのに、『魏志倭人伝』では「南」と書かれているのに対し、『隋書俀国伝』では「東」と書かれているのだ。『魏志倭人伝』の方位表記に対し、『隋書俀国伝』では時計回りに九十度ずれていることになる。
対馬と壱岐のお互いの位置関係は、その方角において、その方位の呼び方がどう変わろうと変わらない。卑弥呼の時代に対馬の南にあった壱岐が、俀王多利思北孤の時代には対馬の東に移動したなどということは物理的にあり得ない。しかし、『魏志倭人伝』では壱岐は対馬の「南」であり、『隋書俀国伝』では「東」と書かれている。これはまぎれもない事実である。これは編纂者魏徴の勘違いなのだろうか。私はそうは思わない。『魏志倭人伝』で明らかに「南」と書かれているものを、勘違いで「東」と書くなど普通では考えられない。魏徴はこのことを承知の上で書いた。私にはそうとしか思えない。なぜそうなったのかはわからないが、魏徴は『魏志倭人伝』の「南」の方角を「東」と判断したのである。そして、このわかりきった方位を敢えて九十度ずれた方位で表記したという事実は、この方位表記方法はこの記事だけではないのではないか、ということを示唆する。
その一つにBグループの⑤の記事がある。⑤は、竹島から都斯麻国へ向かうとき、南に[身冉]羅国を見ながら進んでいった、という内容である。[身冉]羅国は済州島であるとみられ、竹島は釜山沖の島の一つと考えられているから、本来ならば「南に[身冉]羅国を望み」は「西に[身冉]羅国を望み」としなければならないところだ。しかし『隋書俀国伝』は、これを西ではなく南と表記したのである。やはり『魏志倭人伝』の方位表記に対し、時計回りに九十度ずれた表記をしている。

⑤は、『隋書俀国伝』の記事には『魏志倭人伝』の方位に対し九十度ずれた方位を使用している記事が一つだけではなかったことを示し、さらにこの結果は、同じBグループの他の記事も、それまでにない新しい知識として書かれている限り、その方位についても、『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれた表記方法をとっている可能性が非常に高いことを示唆している。古い記事はそのままにしておいたとしても、新しい知識による記事の中に、従来の方位と新しい知識による方位をこちゃまぜにして記すということは、いくら何でも普通ではあり得ないと思うからである。
こうしてみると、当初A、Bとは別のCグループとした⑥は、方角に関して言えば、従来の『魏志倭人伝』の「南」に対し「東」という新しい知識によって『魏志倭人伝』を書き替えたものであり、Bグループと同類であるとみることができる。
そうすると、当初三つに分けた方位記事は、古い記事をそのまま載せたAグループと、新しい知識によって書かれた、あるいは書き直されたBグループの二つに集約することができる。
-続きはまた明日-
また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。
『魏志倭人伝』は、一大国は対海国から南の方角にあると言っているわけであるが、⑥は、一支国は都斯麻国から東の方角にあると言っているのだ。対海国は都斯麻国であり、一大国は一支国であり、現在の対馬と壱岐の関係になる。つまり対馬から壱岐へ行くのに、『魏志倭人伝』では「南」と書かれているのに対し、『隋書俀国伝』では「東」と書かれているのだ。『魏志倭人伝』の方位表記に対し、『隋書俀国伝』では時計回りに九十度ずれていることになる。
対馬と壱岐のお互いの位置関係は、その方角において、その方位の呼び方がどう変わろうと変わらない。卑弥呼の時代に対馬の南にあった壱岐が、俀王多利思北孤の時代には対馬の東に移動したなどということは物理的にあり得ない。しかし、『魏志倭人伝』では壱岐は対馬の「南」であり、『隋書俀国伝』では「東」と書かれている。これはまぎれもない事実である。これは編纂者魏徴の勘違いなのだろうか。私はそうは思わない。『魏志倭人伝』で明らかに「南」と書かれているものを、勘違いで「東」と書くなど普通では考えられない。魏徴はこのことを承知の上で書いた。私にはそうとしか思えない。なぜそうなったのかはわからないが、魏徴は『魏志倭人伝』の「南」の方角を「東」と判断したのである。そして、このわかりきった方位を敢えて九十度ずれた方位で表記したという事実は、この方位表記方法はこの記事だけではないのではないか、ということを示唆する。
その一つにBグループの⑤の記事がある。⑤は、竹島から都斯麻国へ向かうとき、南に[身冉]羅国を見ながら進んでいった、という内容である。[身冉]羅国は済州島であるとみられ、竹島は釜山沖の島の一つと考えられているから、本来ならば「南に[身冉]羅国を望み」は「西に[身冉]羅国を望み」としなければならないところだ。しかし『隋書俀国伝』は、これを西ではなく南と表記したのである。やはり『魏志倭人伝』の方位表記に対し、時計回りに九十度ずれた表記をしている。

⑤は、『隋書俀国伝』の記事には『魏志倭人伝』の方位に対し九十度ずれた方位を使用している記事が一つだけではなかったことを示し、さらにこの結果は、同じBグループの他の記事も、それまでにない新しい知識として書かれている限り、その方位についても、『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれた表記方法をとっている可能性が非常に高いことを示唆している。古い記事はそのままにしておいたとしても、新しい知識による記事の中に、従来の方位と新しい知識による方位をこちゃまぜにして記すということは、いくら何でも普通ではあり得ないと思うからである。
こうしてみると、当初A、Bとは別のCグループとした⑥は、方角に関して言えば、従来の『魏志倭人伝』の「南」に対し「東」という新しい知識によって『魏志倭人伝』を書き替えたものであり、Bグループと同類であるとみることができる。
そうすると、当初三つに分けた方位記事は、古い記事をそのまま載せたAグループと、新しい知識によって書かれた、あるいは書き直されたBグループの二つに集約することができる。
-続きはまた明日-
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