これらの方位記事は、その性格上①④⑨、②③⑤⑦⑧、そして⑥の三つのグループに分けることができる。①④⑨をAグループ、②③⑤⑦⑧をBグループ、⑥をCグループとする。
 Aグループは『魏志倭人伝』より書き伝えられてきたものを基本として、隋の時代に即した表現に直したもの、と言うことができる。
 ①は『魏志倭人伝』の「帯方東南大海の中にあり」に対応し、「帯方」とあったところが「百済・新羅」となり、東南という方位は変わらない。④は「郡より女王国に至る万二千余里」に対応し、「郡」が「楽浪郡境および帯方郡を去る」となっている。これに続く「会稽の東にあり、儋耳と相近し」は『魏志倭人伝』の「その道里を計るに、当に会稽東治の東にあるべし」によっており、会稽の東方という理解で一致している。
 それぞれ表現は変わっても、その意図するところは変わっていない。すなわち中国側は、「倭国の朝鮮半島の帯方郡のあったところから東南の方向に一万ニ千余里程離れたところにあり、それはおよそ会稽の東の方角に当たる」とみていたのである。『後漢書倭伝』『宋書倭国伝』をはじめ、中国正史は倭国の位置についてはほぼこれと同じ書き方をしており、これは中国側が倭国を表現する時の、ひとつの決まり文句のようなものだった、と考えることができる。
 ⑨の「海西」という言葉は初めて使われたものであるが、これは倭国側から見た表現であり、④の「会稽の東にあり」と同じ内容を逆の方角から表現したものと考えられる。
 これに対しBグループは、これまでの正史には書かれたことがない、まったく新しい『隋書俀国伝』独自の知識としての方位記事となっている。②③などには特にそれが現れている。
 Cグループの⑥は、『魏志倭人伝』にもほぼ同じ内容の記事があるという点だけでみればAグループということになるが、そこに記載されている方角が異なるので、Aグループには入れられない。しかもここのところが非常に重要になってくるのである。

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