『隋書俀国伝』の行路記事には非常に重要なキーワードが隠されている。
(1) 東
(2) 海岸
(3) 十日
である。しかし、ほとんどの研究者はこれらのことを何の検討もなしに通り過ぎてしまっている。『隋書俀国伝』でとっている行路は『魏志倭人伝』のそれとはまったく異なり、一見非常に大雑把にみえるため、最初から『魏志倭人伝』とは比較にならないと思い込んでしまっているのかもしれない。しかし、「邪馬壹国=邪靡堆」であるその邪靡堆への行路がほとんど研究の対象となっていないという事実は、『魏志倭人伝』の行路研究の華々しさに比べ、まったくもって不思議というか不可解であり、これを研究者の先入観にとらわれた怠惰と言ったら言い過ぎだろうか。このように『隋書俀国伝』においては、その行路自体が研究の対象となっていないのだから、ましてや「東」「海岸」「十日」などという文字に目をとめ、その意味を追求するなどということを期待するのは所詮無理な話なのかもしれない。
『隋書俀国伝』には、『魏志倭人伝』の邪馬臺国であるといっている邪靡堆への行路がある。これは普通に考えれば、『魏志倭人伝』の行路との比較研究の格好の対象となるはずである。しかし現実は違う。『隋書俀国伝』の行路は研究しない、『魏志倭人伝』の行路との比較検討もしない。そして『魏志倭人伝』だけで勝手なことを言っている。私にはとても信じられない話である。それでは、このような状況の中で何をしたらよいのか。それはまず『隋書俀国伝』の行路を明らかにすること、このことが邪馬壹国問題解決の最大の糸口になり得ると私は信じている。
「東」「海岸」「十日」の持つ意味は、既成概念に毒されていない人ほど、たぶん素直に理解できるはずである。『隋書俀国伝』の行路記事は『魏志倭人伝』のそれに比べ非常に簡単にみえる。しかし注意してみていくと、何かちょっと違うな、という感じにさせる。それがこの「東」「海岸」「十日」なのである。この三つのキーワードを解くことによって、『隋書俀国伝』の行路は具体的になっていく。しかも『魏志倭人伝』以上にである。以下、『隋書俀国伝』の行路記事を解剖していきたいと思う。
※「邪靡堆」は「邪摩堆」が正しいと思われますが、原文のまま表記しています。
-この続きはまた明日-
(1) 東
(2) 海岸
(3) 十日
である。しかし、ほとんどの研究者はこれらのことを何の検討もなしに通り過ぎてしまっている。『隋書俀国伝』でとっている行路は『魏志倭人伝』のそれとはまったく異なり、一見非常に大雑把にみえるため、最初から『魏志倭人伝』とは比較にならないと思い込んでしまっているのかもしれない。しかし、「邪馬壹国=邪靡堆」であるその邪靡堆への行路がほとんど研究の対象となっていないという事実は、『魏志倭人伝』の行路研究の華々しさに比べ、まったくもって不思議というか不可解であり、これを研究者の先入観にとらわれた怠惰と言ったら言い過ぎだろうか。このように『隋書俀国伝』においては、その行路自体が研究の対象となっていないのだから、ましてや「東」「海岸」「十日」などという文字に目をとめ、その意味を追求するなどということを期待するのは所詮無理な話なのかもしれない。
『隋書俀国伝』には、『魏志倭人伝』の邪馬臺国であるといっている邪靡堆への行路がある。これは普通に考えれば、『魏志倭人伝』の行路との比較研究の格好の対象となるはずである。しかし現実は違う。『隋書俀国伝』の行路は研究しない、『魏志倭人伝』の行路との比較検討もしない。そして『魏志倭人伝』だけで勝手なことを言っている。私にはとても信じられない話である。それでは、このような状況の中で何をしたらよいのか。それはまず『隋書俀国伝』の行路を明らかにすること、このことが邪馬壹国問題解決の最大の糸口になり得ると私は信じている。
「東」「海岸」「十日」の持つ意味は、既成概念に毒されていない人ほど、たぶん素直に理解できるはずである。『隋書俀国伝』の行路記事は『魏志倭人伝』のそれに比べ非常に簡単にみえる。しかし注意してみていくと、何かちょっと違うな、という感じにさせる。それがこの「東」「海岸」「十日」なのである。この三つのキーワードを解くことによって、『隋書俀国伝』の行路は具体的になっていく。しかも『魏志倭人伝』以上にである。以下、『隋書俀国伝』の行路記事を解剖していきたいと思う。
※「邪靡堆」は「邪摩堆」が正しいと思われますが、原文のまま表記しています。
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