日本古代史一人旅

必要なのは 結論ありきのストーリーではなく 史料に基づいたヒストリー

 隋使が通ったと思われる行路 「東」は実は「南」ではないか、という疑問から発して、私は邪靡堆のありかを探ってきた。そしてついにおおよその見当をつけるまでに至った。この「東」と書いてあるものを「南」とする見方に対し、これは原文改定ではないかという人がいるか ...

 それでは、小徳阿輩臺や大礼哥多毘を遣わした俀王はどこにいたのだろうか。それはもうここまでくれば簡単である。一 大礼哥多毘を遣わして「郊労」せしむとあるから、「郊労」の意味(郊外に行き出迎え、外国の使者をねぎらう)からすれば、達した海岸は都の城内から少し ...

 さて、このあと隋の使者裴清はどうしたのだろうか。行路記事はなおも続いている。 俀王、小徳阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。後十日、また大礼哥多毘を遣わし、二百余騎を従え郊労せしむ。既に彼の都に至る。 海岸に達した裴清 ...

※この項の説明の中の方位は『魏志倭人伝』の方位で表記します。例:「東」→「南」 そしていよいよ、裴清は第二のキーワードである「海岸」に到着することになる。竹斯国から南に向かい秦王国を通り、筑紫平野の十余国を通った裴清が行きついた海岸とはどこか。上陸した博 ...

※この項の説明の中の方位は『魏志倭人伝』の方位で表記します。例:「東」→「南」 ここから行く次の十余国はどのあたりになるのか。十余国へは具体的な方角は書かれていない。ここでもう一度「竹斯国より以東は、皆俀に附庸す」を見てみよう。竹斯国は俀国本島の北の端で ...

 『隋書俀国伝』の方位がどのような基準で使われているか、それを正確にとらえることにより、邪靡堆への道が何となくではあるが見えてきたように思える。 ここで、これまでの知識をもとにして、大業四年(608)、隋の使者裴清が俀国(倭国)に来た時の行路について検討 ...

 このように、②⑤⑥の方位がすべて『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれていることがわかった。この結果はBグループのその他の記事の方位も『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれた表記になっていることを確信させる。 次にBグループの残りの記事 ...

 このブログを含む私の日本古代史サイトでは、その根拠として、中国正史などに書かれている記録を挙げています。私のサイトのみならず、もし日本古代史に興味を持たれ、それらのことが本当かどうか確認したい場合には、それらに関連する原文資料を手元に置くことが必要にな ...

 ここでもう一つ、新しい知識によって書かれた方位が、『魏志倭人伝』の方位に対し時計回りに九十度ずれていることを②により確認してみよう。 この文は、俀国は東西南北四面を海に囲まれた島国であり島全体が俀国である、ということを言わんとしている。さらに、五月行と ...

 それではCグループ⑥は『魏志倭人伝』とどのように異なっているのだろうか。この部分は『魏志倭人伝』では次のように書かれている。  また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。 『魏志倭人伝』は、一大国は対海国から南の方角にあると言っているわ ...

↑このページのトップヘ