日本古代史一人旅

必要なのは 結論ありきのストーリーではなく 史料に基づいたヒストリー

 帯方郡から狗邪韓国までの行程については、古田武彦氏が従来説とは異なる「韓国内陸行」説を唱えている。この「韓国内陸行」説について考えてみたい。 古田氏は、魏使は帯方郡を船で発ったあとすぐに上陸し、狗邪韓国まで陸行したとしている。古田氏の研究の基本は、「小 ...

 『魏志倭人伝』の不弥国は博多湾に面した福岡市辺りにあった国だったことがわかりました。『隋書俀国伝』からは、竹斯国は博多湾を港に持つ国であることがわかっています。つまり、『魏志倭人伝』の不弥国から邪馬壹国までの行路は、『隋書俀国伝』の竹斯国から筑紫平野経 ...

 帯方郡から伊都国までの一里の平均は90.5メートルであるが、平均する前の一里は、二点間の最短距離は33メートル、最長距離は138メートルとなる。これは確実とされる地点間の距離であり、『魏志倭人伝』に表記された里数から導かれた事実である。 このことからそ ...

 里数については、”一里は何メートルなのか”、またそれは、”長里で書かれているのかそれとも短里で書かれているのか”ということが問題にされている。一里の長さによって、各国の比定地が大きく変わるからだ。 これはどのように考えればよいのだろうか。私は短里、長里 ...

 不弥国から邪馬壹国までの距離は約1300里だということはわかっても、不弥国がどこにあったのかがわからないと何の意味もなくなる。一里は何メートルかを調べる必要がある。一般的にはこの時代の一里は約400メートル強だったとみられているが、実際の距離と大きく異 ...

 『隋書俀国伝』の行路記事に真摯に向かい合うことによって、邪靡堆(『魏志倭人伝』の邪馬壹)は有明海北東部沿岸の筑紫平野から菊池平野にかけてあり、俀王の居城は有明海北東部沿岸にあったことを知った。この結果と『魏志倭人伝』の行路記事を重ね合わせることによって ...

 竹斯国は女王国ではないことは、『隋書俀国伝』の行路記事がはっきりと示している。 隋の使者裴清は、竹斯国へ上陸したあと秦王国へ行き、さらに十余国を経て海岸に達した。そこへ俀国の使いが来たが、もうすでに俀国の都(邪靡堆)に着いていた。こう言っているのである ...

 私は『隋書俀国伝』から、倭国の都が有明海の北東部沿岸にあったことを導き出した。その『隋書俀国伝』を中心資料としてとりあげる人が少ない中で、古田武彦氏は『隋書俀国伝』の記事を、私の結論とは異なった「竹斯国=女王国」であることの証拠の一つとして挙げている。 ...

 拙著「『隋書俀国伝』の証明」では、朴堤上説話を自説の裏付けになるものとして取り上げましたが、この説話をはじめに取り上げたのは古田武彦氏で、邪馬壹国は博多湾に近接したところにあったとする裏付けのためでした。私は、古田氏の「邪馬壹国は博多湾に近接したところ ...

 ここに一つの疑問が起きる。それは『隋書』の撰者魏徴はなぜ、俀国の位置を示す記事の方位はそれまでの正史と同じで、俀国内についての方位は『魏志倭人伝』の方位と九十度ずれた方位を使用したのか、ということである。 倭の位置は中国正史では次のようになっている。  ...

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